、橋和屋という料理屋の傍から大崎の田圃《たんぼ》に出た。
 蓮華《げんげ》、鷺草《さぎそう》、きんぽうげ、鍬形草《くわがたそう》、暮春の花はちょうど絵具箱を投げ出したように、曲りくねった野路を飾って、久しい紀念《おもいで》の夕日が岡は、遠く出島のように、メリヤス会社のところに尽きている。目黒川はその崎を繞《めぐ》って品川に落ちる、その水の淀《よど》んだところを亀の子島という。
 大崎停車場は軌道の枕木を黒く焼いて拵えた粗《あら》っぽい柵《さく》で囲まれている。その柵の根には目覚むるような苜蓿《クロバー》の葉が青々と茂って、白い花が浮刻《うきぼり》のように咲いている。私はいつかこの苜蓿の上に横たわって沈欝な灰色の空を見た。品川発電所の煤煙が黒蛇のように渦まきながら、亀の子島の松をかすめて遠い空に消えて行く、私はその煙の末をつくづくと眺めやって、私の来し方のさながら煙のようなことを思うた。
 遠くけたたましい車輪の音がするので振り返って見ると、目黒の方から幌《ほろ》をかけた人力車が十台ばかり、勢いよく駆けて来る。雨雲の低く垂れた野中の道に白い砂塵が舞い揚って、青い麦の畑の上に消える。車は見る見る近づいて、やがて私の寝ている苜蓿の原の踏切を越えた。何の気もなく見ると、中央《まんなか》の華奢《きゃしゃ》な車に盛装した高谷千代子がいる。地が雪のようなのに、化装《よそおい》を凝《こ》らしたので顔の輪廓が分らない、ちょいと私の方を見たと思うとすぐ顔をそむけてしもうた。
 佳人の嫁婚!
 油のような春雨がしとしとと降り出した。ちょうど一行の車が御殿山の森にかくれたころのことである。
 翌日私の下宿に配達して行った新聞の「花嫁花婿」という欄に、工学士|蘆《ろ》鉦次郎《しょうじろう》の写真と、高谷千代子の写真とが掲載されて、六号活字の説明にこんなことが書いてあった。
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工学士蘆鉦次郎氏(三十五)は望月貞子の媒酌《ばいしゃく》にて窮行女学院今年の卒業生中才色兼備の噂高き高谷千代子(十九)と昨日品川の自宅にて結婚の式を挙げられたり。なお同氏は新たに長崎水谷造船所の技師長に聘《へい》せられ来たる四月一日新婚旅行を兼ね一時郷里熊本に帰省せらるる由なり。
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 蘆鉦次郎――高谷千代子――水谷造船所――四月一日、私はしばらく新聞を見つめたまま身動きも出来
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