は世の罪を思うた。

     *    *    *

 三月十八日は高谷千代子の卒業日、私は非番で終日長峰の下宿に寝ているつもりであったけれども、何となく気が欝いでやるせがないので、家を出るとそのまま多摩川の二子《ふたこ》の方に足を向けた。木瓜《ぼけ》の花と菫《すみれ》の花とが櫟林の下に咲き乱れている。その疎《まば》らな木立越しに麦の畑が遠く続いて、菜の花の上に黒ずんだ杉の林のあらわれたところなど、景色も道も単調ではないけれど、静かな武蔵野の春にわれ知らず三里の道を行き尽して、多摩川の谷の一目に見渡される、稲荷坂《いなりさか》に出た。
 稲荷坂というのは、旧《もと》布哇《はわい》公使の別荘の横手にあって、坂の中ほどに小さい稲荷の祠《ほこら》がある。社頭から坂の両側に続いて桜が今を盛りと咲き乱れている。たまさかの休暇を私は春の錦という都に背《そむ》いて思わぬところで花を見た。祠の縁に腰をかけて、私はここで「通俗巴里一揆物語」の読みかけを出して見たが、何となく気が散って一|頁《ページ》も読むことが出来なかった。私は静かに坂を下りて、岸に沿うた蛇籠《じゃかご》の上に腰かけて静かに佳人の運命を想い、水の流れをながめた。
 この一個月ばかり千代子はなぜあんなに欝いでいるだろう、汽車を待つ間の椅子《ベンチ》にも項垂《うなだ》れて深き想いに沈んでいる。千代子の苦悩は年ごろの処女が嫁入り前に悲しむという、その深き憂愁《うれい》であろうか。
 群を離れた河千鳥が汀《みぎわ》に近く降り立った。その鳴き渡る声が、春深い霞《かすみ》に迷うて真昼の寂しさが身に沁みるようである。

     二十四

 四月一日私はいよいよ小林浩平に伴われて門司へ立つのだ。三月十五日限り私は停車場《ステーション》をやめて、いろいろ旅の仕度に忙わしい。たとえば浮世絵の巻物を披《ひろ》げて見たように淡暗い硝子の窓に毎日毎日映って来た社会のあらゆる階級のさまざまな人たち、別離《わかれ》と思えば恋も怨みも皆夢で、残るのはただなつかしい想念ばかりである。森も岡も牧場も水車小屋も、辛い追懐《おもい》の種ばかり、見るに苦しい景色ではあるけれど、これも別離と言えばまた新しい執着を覚える。
 旅の支度も大かた済んだ。別離の心やみがたく私は三月二十八日の午後、権之助坂を下りてそれとはなしに大鳥神社の側の千代子の家の垣に沿うて
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