野道で二人が手を取って歩いているのを見たという者がある。それから話の花が咲いて、あることないこと、果ては聴くに忍びないような猥《みだ》りがましい噂に落ちて、ドッと笑う。
最もこれは停車場ばかりの噂ではなかった、長峰の下宿の女房《かみさん》も、権之助坂の団子屋の老婆《ばあさん》も、私は至るところで千代子の恋の噂を耳にした、千代子は絶世の美人というのではないけれども、大理石のように緻《こま》やかな肌《はだ》、愛嬌《あいきょう》の滴《したた》るような口もと、小鹿が母を慕うような優しい瞳は少くとも万人の眼を惹《ひ》いて随分評判の高かっただけに世間の嫉妬《ねたみ》もまた恐ろしい。
嫉妬! 私は世間の嫉妬の恐ろしさを今初めて知った。憐《あわ》れなる乙女は切なる初恋の盃に口つけする間もなく、身はいつの間にかこの恐ろしい毒焔の渦《うず》まきに包まれて、身動きも出来ない※[#「言+山」、第3水準1−91−94]謗《せんぼう》の糸は幾重にもそのいたいけな手足を縛めていたのである。「どうして大槻という奴は有名な男地獄で、もう横浜にいた時分から婆芸妓《ばばあげいしゃ》なんかに可愛がられたことがあって大変な玉なんだ」と誰やらがこんなことをいうた。
「女だってそうよ、虫も殺さないような顔はしていても、根が越後女だからな」私はこんな※[#「言+山」、第3水準1−91−94]誣《そしり》の声を聞くたびに言うに言われぬ辛い思いをした。私の同情は無論純粋の清い美しい同情ではなかった。二人の運命を想いやる時には、いつでも羞かしい我の影がつき纏《まと》うて、他人《ひと》の幸福《さいわい》を呪《のろ》うようなあさましい根性も萌《きざ》すのであった。
実際千代子の大槻に対する恋は優しい、はげしい、またいじらしい初恋のまじりなき真情《まこと》であった。万事に甘い乳母を相手の生活《くらし》は千代子に自由の時を与えたので、二人夕ぐれの逍遙《そぞろあるき》など、深き悲痛《かなしみ》を包んだ私にとってはこの上なく恨めしいことであった。
貧しき者は、忘れても人を恋するものでない。
恋――というもおこがましいが、私にとっては切なる恋、その恋のやぶれから、言いしれぬ深い悲哀がある上に、私は思いがけない同輩《なかま》の憎悪《にくしみ》を負わなければならない身となった。それは去年の秋の蘆《ろ》工学士の事件から私は足立駅
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