とを思うたにしてもそれは思うばかりで、それでつまりがどうしようというのでもない、恋してもいない人のことをなぜこんなに気にするのだろう。
 それともこれが恋というものであろうか。
 私の耳には真昼の水の音がさながらゆめのように聞えて、細い杉《すぎ》の木立から漏れて来る日の光が、さながら月夜の影のように思いなされた。

     十四

 私の傷はもう大かた癒《い》えた、次の月曜日あたりから出勤しようと思うて、午後駅長の宅《うち》を訪ねて見た。細君が独りで板塀の外で張り物をしていたが、私が会釈《えしゃく》するのを見て、
「今日は留守ですよ、非番でしたけれども本社の方から用があるというて来ましたので朝出かけたままですよ」
「どんな御用でしょう、この間の事件《こと》ではないでしょうか」
「サア、宅の人もそう言うていましたがね、ちっとも心配することはないと言うて出て行きましたよ」とさりげなく言うたけれども、私は細君の眉のあたり何となく晴れやらぬ憂いの雲を見た。
 私はこのいい細君が襷《たすき》をあやどって甲斐甲斐《かいがい》しく立ち働きながらも、夫の首尾を気づこうて、憂いを胸にかくしている姿を見て、しみじみと奉職《つとめ》の身の悲しさを覚えて、私のし過しから足立駅長のような善人が、不慮の災難を被《き》ることかと思うと、身も世もあられぬような想いがした。
「心配なことはないでしょうか」
「大丈夫でしょう」と言うたが、顔を上げて、
「もう快《い》いのですか」
「ええ明後日あたりから出勤することにしたいと思いまして……」

     *    *    *

 その夜の月はいと明るかった。
 駅長は夕方帰って来たが、きょうは好きな謡曲もやらないで、私の訪ねるのを待っていろいろその日の首尾を話してくれた。
 要するに、私の心配したほどでもなかったが、駅長は言うべからざる不快を含んで帰って来たらしい。
 この間の工学士というのは品川に住んでいた東京市街鉄道会社の技師を勤めている蘆鉦次郎《ろしょうじろう》という男で、三十二年の卒業生であるそうだ、宮内省に勤めた父親の関係から、社長の曽我とも知己《しりあい》の間《なか》でこの間の失敗《しくじり》を根に持ってよほど卑怯な申立てをしたものと見えて、始めは大分事が大げさであったのを、幸いに足立駅長が非常に人望家であったために、営業所長が力を尽して
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