いまだ水々しい栗の渋皮をむくのに余念もない。
「そうか、目黒から来たのか、家はどこだい父親《ちゃん》はいないのか」
「父親なんかもうとうに死んでしまったい。母親《おっかあ》だけはいたんだけれど、ついとうおれを置いてけぼりにしてどこかへ行ってしまったのさ、けどもおらアその方が気楽でいいや、だって母親がいようもんならそれこそ叱《しか》られ通しなんだもの」
「母親は何をしていたんだい」
「納豆《なっとう》売りさ、毎朝|麻布《あざぶ》の十番まで行って仕入れて来ちゃあ白金の方へ売りに行ったんだよ、けどももう家賃が払えなくなったもんだから、おればっかり置いてけぼりにしてどこかへ逃げ出してしまったのさ」
「母親一人でか?」
「小さい坊やもつれて!」
「どこに寝ているのか」
「昨夜《ゆうべ》は大鳥様へ寝た」と権之助坂の方を指さして見せる。
私はあまりの惨《いた》ましさに、ポケットから白銅を取り出してくれてやると少年は無造作に受け取って「ありがとう」と言い放つとそのまま雨を衝いて長峰のおでん屋の方に駆けて行ってしまった。
見送ってぼんやりと佇んでいると足立駅長が洋服に蛇《じゃ》の目《め》の傘をさして社宅から来かけたが、廊下に立ってじっと私の方を見ていた。雨垂れの音にまぎれて気がつかなかったが、物の気配に振り向くとそこに駅長が微笑を含んでいた。
今の白銅は私が夕飯のお菜《かず》を買うために持っていたので、考えて見ると自分の身に引き比べて何だか気羞かしくなって来た。コソコソと室に入って椅子によると同時に大崎から来た開塞の信号が湿っぽい空気に鳴り渡った。乗客《のりて》は一人もない。
十
雨がやむと快晴が来た。
シットリと濡れた尾花が、花やかな朝日に照りそうて、冷めたい秋風が一種言いしれぬ季節の香を送って来る。崖の上の櫨《はじ》はもう充分に色づいて、どこからとなく聞えて来る百舌鳥《もず》の声が、何となく天気の続くのを告げるようである。
今日は日曜で、乗客が非常に多い。午後一時三十五分品川行きの列車が汽笛を鳴らして運転をはじめたころ、エビスビールあたりの帰りであろう、面長の色の浅黒い会社員らしい立派な紳士が、眼のあたりにポッと微薫を帯びて、洋杖《ステッキ》を持った手に二等の青切符を掴んで階壇を飛び降りて来た。
「危険《あぶない》! もうお止しなさい※[#感嘆符三つ、4
前へ
次へ
全40ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
白柳 秀湖 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング