嗅ぐこともあった。私に特に話しかけることは別になかった。自分のした内証話はほとんど忘れてしまっていたのだろうと思う。しかし気分は前よりはそわそわして、体《からだ》の弱っていることを差引すると前よりは荒っぽくなった。酔っ払った時などは、彎刀《カトラス》を引き抜いて、前のテーブルの上に抜身のまま置いたりするような、ひやひやさせることをした。しかし、そんなような有様ではあったけれども、前よりは他の人々のことを気にかけなくなり、自分だけの考えに耽って、幾らか気が変になっているのかと思われた。例えば、一度などは、私たちの非常に驚いたことには、鄙《ひな》びた恋唄のような、違った歌を歌い出したりしたものだった。それは、彼がまだ船乗にならない前の若い時分に覚えたものに違いなかった。
 このようにして過ぎていったが、葬式の翌日、霧深い、身を斬るような、霜寒の午後の三時頃、私は戸口のところにしばらく立って、父についての悲しい思いに耽っていた。すると、だれかが街道をのろのろとこっちへやって来るのが見えた。その男は、杖で自分の前をこつこつ叩いているし、眼と鼻との上に大きな緑色の覆いをかけているところをみると、
前へ 次へ
全412ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 直次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング