。――
「何だって想像なぞしたことは一度もありません。想像力なんてちっともないんです。」
「こりゃあ間違ったな。では、あんたの推測するところでは――あんただって時には推測ぐらいはするね?」
「時々はね。」とプロス嬢が言った。
「あんたの推測するところでは、」とロリー氏は、彼女を親切そうに見ながら、例のきらきらした眼に笑いを含んだ光を閃かして、言い続けた。「|マネット先生《ドクター・マネット》は、御自分があんなに迫害されたことの原因や、またたぶんその迫害者の名前などについても、あの永い年月《としつき》の間ずっと、何か御自分の御意見を持っておられた、と思いますかね?」
「私は、そのことについては、お嬢さまが私にお話下さいましたことの他《ほか》には、何も推測したことがありません。」
「で、そのお嬢さまのお話では――?」
「お嬢さまは先生がそれについて御意見を持っていらっしゃると思ってお出でです。」
「ところで、わたしがこんなにいろんなことを尋ねるのに腹を立てないで下さいよ。わたしはただの気の利かない事務家だし、あんたも婦人の事務家なんだからね。」
「気の利かないですか?」とプロス嬢はつんとして尋ねた。
 その謙遜な形容詞を使わなければよかったと思いながら、ロリー氏は答えた。「いや、いや、いや。確かにそうじゃないとも。で、事務のことに戻るとして。――|マネット先生《ドクター・マネット》が、どんな罪も犯したことがないに違いないのに、そうだということはわれわれはみんな十分に確信しているんだが、それだのに、その問題に決して触れようとされないというのは、不思議じゃあないですか? あの人は昔わたしと事務上の関係があったし、今はお互に懇意になっているとはいえ、わたしは自分のために言うのではない。あの人があんなに心から愛著しておられ、またあの人にあんなに心から愛著しておられる、あの美しいお嬢さんのために言っているつもりなんだがね? とにかく、|プロスさん《ミス・プロス》、わたしがあんたとこんな話をしようとするのは、好奇心からするのではなくって、心配のあまりにするのだ、ということを信じてもらいたいのだが。」
「そうね! 私にわかっております限りでは、と申してもわずかなことでしょうがねえ、」とプロス嬢は、その弁解の語調のために心を和《やわら》げて、言った。「あの方《かた》はその話には何でもかんでも一切触れるのを怖《こわ》がっていらっしゃるんですよ。」
「怖がって?」
「なぜ怖がっていらっしゃるかってことはよっくわかる、と思うんですが。それは恐しい思い出ですもの。それにまた、あの方《かた》が正気をなくされましたのもそれから起ったことですもの。どんな風にして正気をなくしたのか、またどんな風にして正気に戻ったのかということを御自分では御存じないので、あの方《かた》には自分がまた正気をなくしないってことはどうしてもはっきりと請合《うけあ》えないんでしょう。このことだけだってその話はあの方《かた》には気持がよくはないんだろうと、私はそう思うんです。」
 これはロリー氏が予期していたより以上の意味深長な言葉であった。「なるほど。」と彼は言った。「だから考えるのも恐しいんだね。それにしてもだ、|プロスさん《ミス・プロス》、わたしの心の中には疑いが一つ残っているんですがね。そういう気持を御自分の心の中に始終押し隠しておられるということは|マネット先生《ドクター・マネット》のためにいいかどうか、ということなんだ。実際、その疑いのために、またその疑いから時々私の心に起る不安のために、わたしはこの現在の打明け話をする気になったのだが。」
「どうともしようがないんでしょうね。」とプロス嬢が頭を振りながら言った。「そのことにちょっとでも触れるとなると、あの方《かた》はじきに工合が悪くなるんですもの。うっちゃってそのままにしておく方がいいんでしょうね。つまり、厭《いや》でも応でも、うっちゃってそのままにしておくより他《ほか》はないんでしょう。時々、あの方《かた》は真夜中《まよなか》にお起きになりましてね、御自分のお部屋の中を往ったり来たり、往ったり来たりしてお歩きになるのが、この上のあそこにいる私どもに聞えることがよくありますの。お嬢さまは、そんな時には、あの方《かた》のお心が昔の牢屋の中を往ったり来たり、往ったり来たりしてお歩きになっているのだとお思いになるように、今ではなっていらっしゃいます。で、急いであの方《かた》のところへお出でになりまして、お二人で御一緒に、そのまま往ったり来たり、往ったり来たりして、あの方《かた》のお心が落著くまで、お歩きになるんですよ。しかしあの方《かた》はお嬢さまに御自分のじっとしておられぬことのほんとうの原因を一|言《こと》も決して仰しゃいませんし、それでお嬢さまもあの方《かた》にそのことを口にしないのが一番いいと気づいてお出でです。で、黙ったまま、お二人は御一緒に往ったり来たり、往ったり来たりして歩いていらっしゃいますと、そのうちに、お嬢さまの愛情とそうして連立っていらっしゃることとであの方《かた》は正気にお返りになるんです。」
 プロス嬢は自分は想像力を持っていないと言ったにもかかわらず、彼女が「往ったり来たりして歩く」という文句を何度も何度も繰返したのをみると、何か一つの悲しい思いに一本調子に絶えず悩まされている苦痛を感知していることがわかり、そのことは彼女がその想像力なるものを持っていることを証明しているのだった。
 その一劃は不思議によく物音を反響する一劃であるということは既に述べた。ちょうど、今|彼方此方《かなたこなた》と疲れた足取りで歩くという話が出たので、そのために起ったのかと思われるほどに、こちらへとやって来る足音が、鳴り響くようにその一劃に反響し始めた。
「そら、お帰りですわ!」とプロス嬢が、その会談を打切りにして立ち上りながら、言った。「もうすぐに何百って人が押し掛けて来ますよ!」
 そこはその音響学上の性質から言って実に珍しい一劃で、実に一種特別な耳のような場所であったので、ロリー氏が開《あ》けてある窓のところに立って、足音の聞えた父と娘との来るのを待っていると、彼等が決して近づいて来ないのではなかろうかというような気がするのであった。その足音が向うへ行ってしまったかのように、さっきの反響が消え失せたばかりではない。決してやって来ない他の足音の反響がその代りに聞えて来て、それが間近に来たかと思うとそれっきり消え失せてしまうのだった。けれども、父と娘とはとうとう姿を見せた。そしてプロス嬢はその二人を出迎えるために表戸口のところに待ち構えていた。
 たとい荒っぽくて、赭ら顔で、怖《こわ》い顔付ではあっても、プロス嬢が、自分の大好きな令嬢が二階へ上るとその帽子を脱がせて、それを自分のハンケチの端でちょっと手入れをして直し、埃《ほこり》を吹き払ってやったり、いつでもしまわれるように彼女のマントを摺《たた》んでやったり、彼女の豊かな髪の毛を、自分自身がもしこの上もなく虚栄心の強いこの上もなく美しい女であったなら、自分の髪の毛にあるいは持ったかもしれないほどの誇らしさで、撫でつけてやったりしているのは、見ていて気持のよいものであった。その彼女の大事な令嬢が、彼女を抱擁して彼女にお礼を言い、自分のためにそんなにまで面倒をみてくれることに不服を言っているのもまた、見ていて気持のよいものであった。――もっとも、その不服を言うのだけはほんの常談に言ってみただけであった。でなければ、プロス嬢は、ひどく気を悪くして、自分自身の部屋にひっこんで泣き出したことであろう。医師が、その二人を傍から見て、言葉や眼付でプロス嬢に彼女がどんなにリューシーを甘やかしているかということを言っているが、その言葉や眼付にはプロス嬢に劣らぬほど甘やかしているところがあるし、もし出来るものならそれより以上に甘やかしたがっているようなのもまた、見ていて気持のよいものであった。ロリー氏が、例の小さな仮髪《かつら》をかぶってこういうすべての様子をにこにこ顔で眺めて、晩年になって独身者の自分に途を照して一つの家庭に導いてくれた自分の運星に感謝しているのもまた、見ていて気持のよいものであった。しかし、こういう有様を何百の人々は見に来はしなかった。そしてロリー氏はプロス嬢の予告の実現されるのを徒らに期待していたのであった。
 食事時になったが、それでもまだ何百の人々は来ない。この小さな家庭の切※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しでは、プロス嬢は台所の方面を引受けていて、いつもそれを驚くほど見事にやってのけた。彼女のこさえる食事は、ごく質素な材料のものでありながら、非常に上手に料理して非常に上手によそってあり、半ばイギリス風で半ばはフランス風で、趣向が非常に気が利いていて、どんな料理も及ばないくらいであった。プロス嬢の交際というのは徹底的に実際的な性質のもので、彼女は、何枚かの一シリング銀貨や半クラウン銀貨で誘惑されて料理の秘訣を自分に知らしてくれそうな貧窮したフランス人を捜して、ソホーやその近隣の区域を荒し※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るのであった。そういうおちぶれたゴール人の子孫★たちから、彼女は実に不思議な技術を習得していたので、そこの家婢である婦人と少女なぞは、彼女を、一羽の禽、一疋の兎、菜園にある一二種の野菜を取って来させて、そういうものを何でも自分の好きなものに変えてしまうような、女魔法使か、シンダレラの教母★のように思い込んでいるほどであった。
 日曜日には、プロス嬢は医師の食卓で食事をすることにしていたが、しかしその他の日には、台所か、それとも三階にある自分自身の室――そこは彼女のお嬢さまの他《ほか》にはかつて誰一人も入ることを許されたことのない青い部屋★であったが――かで、人知れぬ時刻に食事することを、どうしてもやめなかった。この日の食事の際には、プロス嬢は、彼女のお嬢さまの楽しい顔と彼女を喜ばそうとする楽しい努力とに応じて、よほど打寛《うちくつろ》いでいた。だから、その食事もまた非常に楽しかった。
 その日は蒸暑い日であった。それで、食事がすむと、リューシーは、葡萄酒を篠懸の樹の下に持ち出して、みんなそこへ出て腰掛けることにしましょう、と言い出した。すべてのことが彼女次第であり、彼女を中心にして囘転していたので、皆はその篠懸の樹の下へ出て行った。そして彼女は特にロリー氏のために葡萄酒を持って行った。彼女は、しばらく前から、ロリー氏のお酌取りの役を引受けていたのだ。そして、皆が篠懸の樹の下に腰掛けて話している間も、彼女は彼の杯を始終一杯にしておくようにした。あたりの建物の何となく神秘的に見える裏手や横面がそこで話している彼等を覗いていたし、篠懸の樹は彼等の頭上でその樹のいつものやり方で彼等に向って囁いていた。
 それでもまだ、何百の人々は姿を見せなかった。彼等が篠懸の樹の下に腰掛けている間にダーネー氏が姿を見せた。が彼はたった一人であった。
 マネット医師は彼を懇ろに迎えた。またリューシーもそうした。しかし、プロス嬢は俄かに頭と体とにひきつりを起して、家の中へひっこんだ。彼女がこの病気に罹ることは珍しくなかった。そして彼女はその病気のことを打解けた会話の時には「痙攣の発作」と言っていた。
 医師は体の工合がこの上もなくよくて、特別に若々しく見えた。彼とリューシーとの類似はこういう時には非常に目立った。そして、彼等が並んで腰を掛け、彼女は彼の肩に凭れ、彼は彼女の椅子の背に片腕をかけている時に、その似ているところを見比べてみるのは極めて愉快なことであった。
 彼は、いろいろの問題にわたって、非常に決活に、絶えず話していた。「ちょっと伺いますが、|マネット先生《ドクター・マネット》、」とダーネー氏が、彼等が篠懸の樹の下に腰を下した時に、言ったが、――それは、ちょうどその時ロンドンの古い建築物ということが話題になっていたので、自然その話を
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