いうことであったし、また銀が浮彫を施されているということであったし、それにまた金がある不可思議な巨人によって打ち延べられているということであった。この巨人は表広間の壁から金色《こんじき》の片腕を突き出していて★、――あたかも、自分は自分をこのように高価な金属に打ち換えてしまったのだが、訪問者も片っ端から同じ風に金に変えてやるぞと嚇《おど》しつけてでもいるかのようであった。このようなさまざまな商売にしても、階上に住んでいるという噂の一人きりの間借人にしても、階下に事務所を持っているという話の魯鈍な馬車装具製作人にしても、いつでもほとんど音も立てなければ姿も見せなかった。時としては、ちゃんと上衣を著込んだ風来の職工が広間を横切って行ったり、あるいは見慣れぬ人がそこらを覗き込んだり、あるいは中庭を隔てて遠くからかちんかちんという金物の音が聞えたり、例の金色《こんじき》の巨人のところからとんとんと打つ音が聞えたりすることがあった。けれども、こういうことは、家の背後の篠懸の樹の中にいる雀と、家の前の街の一劃の反響とが、日曜日の朝から土曜日の晩まで思いのままに振舞っている、という法則を証明するために必要な、除外例に過ぎなかった。
 マネット医師は、この住居で、彼の昔の評判を知っているとか、また彼の身の上話が口から口へと伝えられるうちにその評判が蘇《よみがえ》ったのを聞いたとかして、彼の許へやって来る患者を、迎えた。彼の科学上の知識と、精巧な実験を行う時の彼の用意周到さと熟練とのために、彼には他の方面でも相当の依頼者が出来た。で、彼は必要なだけの収入は得られたのであった。
 以上のことは、ジャーヴィス・ロリー氏が、その天気のよい日曜日の午後、その一劃にある閑静な家の戸口の呼鈴《ベル》を鳴らした時に、彼の知っており、考えており、気づいていた範囲内のことであったのである。
「|マネット先生《ドクター・マネット》は御在宅?」
 もうお帰りになるはずとのこと。
「リューシーさんは御在宅?」
 もうお帰りになるはずとのこと。
「|プロスさん《ミス・プロス》は御在宅?」
 たぶんいらっしゃるだろうが、しかし、お入り下さいと言っていいのか、いらっしゃいませんと言った方がいいのか、それについてのプロスさんの意向を予想することは、女中には確かに出来ないとのこと。
「わたしは心やすい者だから、」とロリー氏は言った。「二階へ上らしてもらうとしよう。」
 医師の令嬢は、自分の生れた国のことは少しも知らなかったのに、その国の最も有用で最も愉快な特徴の一つである、わずかな資力を大いに利用するというあの才能を、その国から生れながらに享けているように見えた。家具は質素なものではあったが、ただその趣味と嗜好とにだけ価値のあるいろいろの小さな装飾で引立たせてあったので、その効果は気持のよいものであった。室内の一番大きな物から一番小さな物に至るまでのあらゆるものの配置、色彩の配合、些細なものの節約や、巧妙な手際や、明敏な眼識や、優れた感覚などで得られた優雅な多種多様さと対照、そういうものはそれ自身としても非常に快いものであると同時に、それの創案者をも非常によく表《あらわ》していたので、ロリー氏があたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しながら立っていると、椅子や卓子《テーブル》までが、この時分までには彼にはすっかりおなじみになっていたあの一種特別の表情★のようなものを浮べながら、彼に、お気に入りましたか? と尋ねているように思われるほどであった。
 一つの階には三つの室があった。そして、その室と室とを通ずる扉《ドア》は空気がどの室をも自由に吹き抜けられるようにと開《あ》け放してあったので、ロリー氏は、自分の周囲のどこにも目につくその空想上の類似★ににこにこしながら眼を留めて、一室から次の室へと歩いて行った。最初の室は一番上等の室で、そこにはリューシーの小鳥と、草花と、書物と、机と、裁縫台と、水彩絵具の箱とがあった。二番目の室は医師の診察室で、食堂にも使われていた。中庭の例の篠懸の樹のさらさらと動く葉影で絶えず変化する斑《まだら》模様をつけられている三番目の室は、医師の寝室であって、――その室の一隅には、今は使われていない靴造りの腰掛台《ベンチ》と道具箱とが、パリーの郊外サン・タントワヌのあの酒店の傍の陰惨な建物の六階にあったとほぼ同じようにして、置いてあった。
「どうも驚くなあ、」とロリー氏はあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すのを止《や》めて、言った。「あの人はあんな自分の苦しみを思い出させるものを身の周りに置いとくなんて!」
「何だってそんなことに驚くんですか?」という不意の問が彼をびくりとさせた。
 その問は、彼がドーヴァーのロイアル・ジョージ旅館《ホテル》で初めて知り合って、その後その時よりは親しくなっていた、例の腕っ節の強い、荒っぽい、赭い顔の婦人、プロス嬢★の発したものであった。
「わたしはこう思っていたんですがねえ――」とロリー氏が言い出した。
「ふうん! 思ってたんですって!」とプロス嬢が言った。それでロリー氏は言葉を切った。
「お変りありませんか?」とその時その婦人は――鋭く、だがあたかも彼に対して何も悪意を抱いていないということを示すつもりであるかのように――尋ねた。
「有難う、達者な方《ほう》です。」とロリー氏は柔和に答えた。「あんたはいかがです?」
「自慢するほどのことはちっともございませんよ。」とプロス嬢が言った。
「ほんとに?」
「ええ! ほんとにですとも!」とプロス嬢は言った。「私はお嬢さまのことでとっても困ってるんですもの。」
「ほんとに?」
「後生《ごしょう》ですからその『ほんとに』の他《ほか》に何とか言って下さいよ。でないと私気が揉めて死にそうですから。」とプロス嬢が言った。彼女の性質は(その体格とは違って)短い方だった。
「じゃあ、全くですか?」とロリー氏は言い直しとして言った。
「『全くですか』だっていやですが、」とプロス嬢が答えた。「少しはましですわ。そうなんですよ、私とっても困っているんです。」
「その訳を伺えますかな?」
「私は、お嬢さまに少しもふさわしくない人たちが何十人と、お嬢さまの世話を焼きにここへやって来てもらいたくはないんですの。」とプロス嬢が言った。
「そんな目的で何十人とほんと[#「ほんと」に傍点]やって来るんですか?」
「何百人とね。」とプロス嬢が言った。
 自分の最初に言い出したことが疑われると、いつでも必ずそれを誇張するというのが、この婦人(彼女の時代より前でもそれより後でも他にもそういう人々はあるのであるが)の特徴なのであった。
「おやおや!」とロリー氏は、自分の思い付くことの出来た中でも一番安全な言葉として、そう言った。
「私がお嬢さまと御一緒に暮して来ましたのは――いいえ、お嬢さまが私と一緒にお暮しになりまして、私にお給金を下さいましたのは、と申さなければならないんで、もし私が何も頂戴しなくても自分なりお嬢さまなりを養ってゆけるのでしたら、決して決して、お嬢さまにそんなお給金を出していただくようなことはおさせしなかったんですが、――その一緒にお暮しになりましたのは、お嬢さまがまだ十歳《とお》の時からでした。ですから、ほんとうにとてもつらいんですの。」とプロス嬢が言った。
 何がとてもつらいのかはっきりとはわからないので、ロリー氏は自分の頭を振り動かした。自分の体《からだ》のその重要な部分を、何にでもぴったりと合う魔法の外套のようなものとして使ったのである。
「お嬢さんにちっともふさわしくないいろんな人たちが、始終やって来るんですからねえ。」とプロス嬢が言った。「あなたがそれをお始めになった時だって――」
「わたしが[#「わたしが」に傍点]そんなことを始めたって、|プロスさん《ミス・プロス》?」
「あなたがお始めになったじゃありませんでしたか? お嬢さんのお父さまを生き返らせたのはどなたでした?」
「ああ、そうか! あのことが[#「あのことが」に傍点]それの始めだったと言うんなら――」とロリー氏が言った。
「あのことはそれの終りだったとも言えないでしょうからね? 今申しましたようにね、あなたがそれをお始めになった時だって、ずいぶんつらかったんですの。と言って、私はマネット先生に何も難癖《なんくせ》をつけるんじゃありません。ただ、あの方《かた》だってああいうお嬢さまにはふさわしくないということだけを別にすればですがね。でもそれはあの方《かた》の咎《とが》じゃあございませんわ。どんな人にだって、どんな場合でも、そんなことは望むのが無理なんですからね。ですけれども、あの方《かた》の後から(あの方《かた》だけは私我慢してあげるんですが)、お嬢さまの愛情を私から取り上げてしまいに、大勢の人たちがやって来るのは、ほんとうに二倍にも三倍にもつらいことですわ。」
 ロリー氏はプロス嬢の非常に嫉妬深いことを知っていた。が、彼はまた、彼女が表面《うわべ》は偏屈ではあるが、その実は、自分たちが失ってしまった若さに対して、自分たちがかつて持ったことのなかった美しさに対して、自分たちが不幸にも習得することの出来なかった芸能に対して、自分たち自身の陰鬱な生涯には一度も射さなかった輝かしい希望に対して、純粋な愛情と欽仰とから、喜んで自分を奴隷にしようとする、あの非利己的な人間――それは女性の間にのみ見出される――の一人であるということも、この時分には知っていた。彼は世間をよく知っていたので、そういう真心の誠実な奉仕に優《まさ》るものは世の中には何ものもないということを知っていた。そのように尽された、そのように金銭ずくの穢《けが》れを少しも持たないそういう奉仕に、彼は極めて高い尊敬の念を持っていたので、彼は、自分だけの心の中で作っている応報の排列表★――吾々は皆そういう排列表を多少とも作っているのであるが――の中では、プロス嬢を、天質と人工との両方によって彼女とは比べものにならぬほど美しく粧うている、テルソン銀行に預金を持っている多くの淑女たちよりも、下級の天使たちによほど近いところに置いていたのであった。
「お嬢さまにふさわしい男は一人だけしかいなかったのですし、これからだってそうでしょう。」とプロス嬢は言った。「その男というのは私の弟のソロモンでしたの。もしあれが身を持崩していませんでしたらばですがねえ。」
 また始った。ロリー氏がいつかプロス嬢の身の上をいろいろと尋ねてみたところが、彼女の弟のソロモンというのは、賭博の賭金にするために彼女の持っていたものを何もかも一切捲き上げて、無一文になった彼女を少しも気の毒とも思わないでそのまま見棄てて行ってしまった無情な無頼漢である、という事実が確かになったのであった。そのソロモンをプロス嬢がそのように信じ切っている(そういうちょっとした身の誤りのためにその信用はいささか減ってはいたが)ということは、ロリー氏には全く常談事とは思えなかった。そしてまた、そのことは彼が彼女に好感を抱くについて大いに効力があったのだった。
「わたしたちは今のところ偶然二人きりだし、二人とも事務の人間だから、」と彼は、二人が応接室へと引返して、そこで打解けた気持で腰を下した時に、言った。「私はあんたにお尋ねしたいんだが、――先生《ドクター》は、リューシーさんと話される時に、あの靴を造っておられた頃のことを仰しゃったことがまだ一度もないかね?」
「ええ、一度も。」
「それだのにあの腰掛台《ベンチ》とあの道具とを自分の傍に置いておかれるんだね?」
「ああ!」とプロス嬢は頭を振りながら答えた。「でも私はあの方《かた》が心の中でもその頃のことを思っていらっしゃらないとは申しませんよ。」
「あんたはあの人がその頃のことをよほど考えておられると思いますか?」
「思います。」とプロス嬢が言った。
「あんたの想像するところでは――」とロリー氏が言いかけると、プロス嬢がその言葉をこう遮った
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