さめざめと涙の雨にくれ、それから「わたしを彼女《あれ》のところへ連れて行ってくれ。」という返事をすることもあった。また時としては、じっと見つめて当惑したような顔をして、それから「わしはそんな女を知らん。わしには何のことかわからん。」という返事をすることもあった。
 そういう想像上の会話の後に、この旅客は、その憐れな人間を掘り出してやるために、空想の裡《うち》で――ある時は鋤で、ある時は大きな鍵で、ある時は自分の両手で――掘って、掘って、掘るのであった。顔にも髪にも土をくっつけたまま、ようやく出て来ると、その男はたちまち倒れて塵になってしまう。すると旅客ははっとして我に返り、窓を下して、霧と雨とを頬に実際に感じるのであった。
 それでも、彼が眼を見開いて、霧と雨や、ランプから射す光の動いてゆく斑紋や、ぐいぐいと遠退《とおの》いてゆく路傍の生垣などを眺めている時でさえ、馬車の外の夜の影は、いつの間にか馬車の内の夜の影のあの連《つらな》りと一緒になるのだった。テムプル関門《バー》の傍のほんとうの銀行も、前日のほんとうの事務も、ほんとうの貴重品室も、彼の後を追っかけて来たほんとうの急書も、彼が
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