ですよ!」と彼は励ましたが、その頬には事務らしくもない一滴の涙が光っていた。「お入りなさい、お入りなさい!」
「あたくしあれが怖《こわ》いのです。」と彼女は身震いしながら答えた。
「あれとは? 何のことです?」
「あの方《かた》のことですの。あたくしの父のこと。」
 彼女はそういう様子だし、案内者は手招きしているので、幾分やけ気味になって、彼は自分の肩の上でぶるぶる震えている彼女の腕を自分の頸にひっかけ、彼女を少し抱え上げるようにして、彼女をせき立てて室内へ入った。彼は扉《ドア》のすぐ内側のところで彼女を下し、自分にしがみついている彼女を支えた。
 ドファルジュは鍵を引き出し、扉《ドア》を閉《し》め、内側から扉《ドア》に錠を下し、再び鍵を抜き取って、それを手に持った。こういうことを皆、彼は、順序正しく、また、立てられるだけの騒々しい荒々しい音を立てて、やったのであった。最後に、彼は整然たる足取りで室を横切って窓のあるところまで歩いて行った。彼はそこで立ち止って、くるりと顔を向けた。
 薪などの置場にするために造られたその屋根裏部屋は、薄暗くてぼんやりしていた。何しろ、そこの屋根窓型の窓というのは、実際は、屋根に取附けた扉《ドア》であって、街路から貯蔵物を釣り上げるのに使う小さな起重機《クレーン》がその上に附いていた。硝子は嵌めてなく、フランス風の構造の扉《ドア》ならどれも皆そうなっているように、二枚が真中で閉《し》まるようになっていた。寒気を遮るために、この扉《ドア》の片側はぴったりと閉《し》めてあり、もう一方の側はほんのごく少しだけ開《あ》けてあった。そこからわずかな光線が射し込んでいるだけだったので、最初入って来た時には何を見ることも困難であった。そして、こういう薄暗がりの中で何事でも精密さを要する作業をする能力は、どんな人間にしてもただ永い間の習慣によってのみ徐々に作り上げることが出来るだけであったろう。しかるに、そういう種類の作業がその屋根裏部屋で行われていたのであった。というのは、一人の白髪の男が、戸口の方に背を向け、酒店の主人が自分を見ながら立っている窓の方に顔を向けながら、低い腰掛台《ベンチ》に腰掛けて、前屈みになってせっせと靴を造っていたからである。
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    第六章 靴造り

「今日《こんにち》は!」とムシュー・ドファルジュは、靴を
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