ジャーヴィス・ロリー氏とマネット嬢とは、こうしてその酒店から出て来ると、ムシュー・ドファルジュがつい先刻彼の他の客たちに教えてやったあの階段の出入口のところで彼と一緒になった。そこは悪臭のある小さな暗い中庭に向いていて、多数の人々の住んでいる積み重なったたくさんの家々の共同の入口になっていた。床瓦《ゆかがわら》を鋪いた薄暗い階段へと続く床瓦を鋪いた薄暗い入口のところで、ムシュー・ドファルジュは昔の主人の息女に対して片膝を曲げて身を屈め、彼女の手を自分の脣にあてた。それは優雅な行為であったが、しかしそのやり方はちっとも優雅ではなかった。数秒の間に極めて著しい変化が彼に起っていたのだ。彼の顔には愛嬌のいいところがなくなったし、開《あ》けっ放しの様子も少しもなくなり、寡言な、怒りっぽい、危険な人間になっていた。
「ずいぶん高いんです。少々厄介ですよ。ゆっくりかかった方がいいでしょう。」三人が階段を昇りかけた時に、ムシュー・ドファルジュはきっとした声でロリー氏にこう言った。
「あの方《かた》は独りでおられるのですか?」と後者が囁いた。
「独りでですと! お気の毒に、あの方《かた》と一緒にいるなんて者はいやしませんよ。」と今一人の方《ほう》が同じ低い声で言った。
「では、あの方《かた》はしょっちゅう独りでおられるんですか?」
「そうです。」
「あの方《かた》自身のお望みで?」
「あの方《かた》自身の余儀ない事情ででさ。あの人たちがわっしを見つけ出して、わっしがあの方《かた》を引取るかどうか、またわっしが危険を冒しても慎重にやってくれるかどうかと聞きただした後で、わっしは初めてあの方《かた》にお目にかかったんですが、――その時あの方は独りであったように、今でもそうなんですよ。」
「ひどく変っておられるでしょうな?」
「変ってるですって!」
 酒店の主人は立ち止って、片手で壁をどんと叩き、恐しい呪いの言葉を呟いた。どんな露骨な返事でもこの半分の力をこめることも出来なかったろう。ロリー氏の気分は、彼が二人の同伴者と共にだんだんと昇ってゆくにつれて、だんだんと沈んでゆくのであった。
 パリーの古くからの込んでいる地域にある、そういう階段や、それの附属物は、今でもずいぶんひどいものであろう。が、その当時では、それは、そういうものに慣れて無感覚になっていない人の感覚には実に厭わしいもの
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