たこの広間は、彼の友人の博士の得意にしている気に入りの部屋であった。そしてアッタスン自身もいつもは、そこをロンドンじゅうで一番居心地のよい部屋だと言っていた。しかし今夜は、彼は気味が悪くてならなかった。ハイドの顔が彼の記憶に重苦しくのしかかっていた。彼は(彼には滅多にないことだが)人生が厭わしく感じられた。そして、気が滅入っているので、彼は、磨き立ててある用箪笥に映るちらちらする炉火の光や、天井に不安そうに動く影にも、凶事の前兆を見るような気がした。やがてプールが戻って来て、ジーキル博士が外出しているということを知らせた時、自分がほっとしたのを彼は恥ずかしく思った。
「わたしはハイドさんがあの元の解剖室の戸口から入るのを見たのだがね、プール、」と彼は言った。「ジーキル博士が不在の時に、そんなことをしても差支えはないのかね?」
「差支えなどございませんとも、アッタスンさま、」とその召使が答えた。「ハイドさんは鍵をお持ちなんですから。」
「おまえの御主人はあの若い人を大そう信用しておられるようだな、プール、」とアッタスンが物思いに沈みながら言葉を続けた。
「はい、旦那さま、全く信用しておいででございます、」とプールが言った。「私どもはみんなあの方のおっしゃる通りにしろと言いつけられております。」
「わたしはハイドさんと一緒になったことがないと思うが?」とアッタスンが尋ねた。
「ええ、ええ、おありではございませんとも、旦那さま。あの方は一度もここで御食事[#「御食事」に傍点]をなさいません、」とその召使頭が答えた。「実際、私どもはお屋敷のこちらの方であの方を滅多にお見かけしないのです。たいていは実験室の方から出入りなさいますから。」
「では、さようなら、プール。」
「おやすみなさいまし、アッタスンさま。」
こうして弁護士はひどく重苦しい心を抱いて家路についた。「気の毒なハリー・ジーキル、」と彼は考えた、「彼が苦しい羽目に陥っているのでなかろうかと気になってならない! 彼は若いときには放蕩をした。いかにも、それはずっと以前のことには違いない。だが、神さまの法律には、時効法なんてものはないのだからな。そうだ、そうに違いない。何かの昔の罪という亡霊か、何かの隠してある不名誉な行ないという癌なのだ。記憶が過ちを忘れてしまい、自分を愛する心が罪を許してしまってから何年もたってから、罰というものは跛をひきながらやって来るものだ。」そして、この考えに嚇かされた弁護士は、しばらく自分自身の過去を考えて、ひょっとして何かの旧悪がびっくり箱のように、いきなり明るみに跳び出してきはしまいかと思って、記憶の隅々までも探ってみた。彼の過去はまず過失のない方だった。彼よりも少ない懸念をもって自分の生涯をふり返ることのできる人は少なかった。それでも彼は自分のなした多くのよくないことを思うと恥ずかしさに堪えなかったが、また、自分が今にもしようとして止めた多くのことを思うと、再び元気づいて厳粛な感謝の念を抱くのであった。それからまた、彼は前の問題にもどって、希望の閃きを心に描いた。「あのハイドという若者もよく調べてみたら、」と彼は思った。「やはり秘密を持っているに違いない。あの男の顔付きから考えれば、さぞ暗い凶悪な秘密をな。それに比べれば可哀そうなジーキルの一番悪い秘密だってお日さまの光みたいなものだろう。このままにうっちゃっておく訳にはゆかない。あんな奴が盗人のようにハリーの枕許へ忍びよることを考えるとぞっとする。可哀そうなハリー、目をさました時にはどんなに怖いだろう! それにまた危険だ。というのは、あのハイドの奴が例の遺言書のあることを感づいたなら、奴は財産を相続するのを待ちかねるようになるかも知れんからな。そうだ、わしは一肌ぬいでやらなければならん、――もしジーキルがわたしにそうさせてさえくれるなら、」と彼は言い足した。「もしジーキルがわたしにそうさせてさえくれるならだ。」するともう一度、彼の心の眼の前に透し絵のようにはっきりと、あの遺言書の奇怪な文句が見えたのである。
ジーキル博士は全く安らかであった
それから二週間ほどたつと、大へん好都合にも、博士は五六人の親しい旧友を招いて、いつもの楽しい晩餐会を催した。みんな聡明な、名声ある人々であり、みんなよい酒の味のわかる連中であった。そしてアッタスン氏は、ほかの人々が帰ってしまった後までも自分で居残るように仕向けた。これは何も初めてのことではなく、それまでに何十回もあったことであった。アッタスンは、好かれるところでは、非常に好かれた。彼を招いた人たちは気さくな連中やおしゃべりな連中がとっくに家へ帰ってしまってからも、この無愛想な弁護士をひき留めておくことを好んだ。彼らは、思い切り陽気にはしゃいだ
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