に大きな安堵の色が現われたのを見て不思議に思った。また、彼がついてこようとして葡萄酒を下に置いたとき、それにはまだ口がつけてないのを見て、それも不思議に思った。
その夜は、風の強い、寒い、いかにもその季節らしい、三月の夜であった。蒼白い月が風に吹きかえされたかのように仰向きになって懸っていて、まるで透きとおった寒冷紗のような薄雲《うすぐも》が一つ空を飛んでいた。風のために話をすることも出来ず、顔には赤い斑が出来た。おまけに、風に吹き払われてしまったように街路にはいつになく人通りがなかった。アッタスン氏はロンドンのこの部分がこんなに人気《ひとけ》のないのは、これまでに見たことがないと思ったくらいだった。彼は人通りがあればいいがと思った。人間に会って触ってみたいという、これほどに烈しい欲望を感じたことは、これまで一度もなかった。どんなに払いのけようと努めても、何か禍いがおこってきそうな強い予感をひしひしと感じないではいられなかったからである。広辻《スクエア》のところまでやってくると、そこは一面に風と埃とが舞っていて、庭園の細い樹々は柵にぶっつかっていた。途中ずっと一二歩先に立って歩いてきたプールは、ここへくると、道の真ん中に立ち止り、身をきるような寒さなのに、帽子を脱いで、赤いハンケチで額を拭いた。けれども、急いで歩いてきたには違いないが、彼が拭ったのは急いだための汗ではなく、何か喉を締めつけられるような苦悩の脂汗だった。なぜなら、彼の顔は蒼白であったし、口をきいた時にはその声はかすれてとぎれがちであったから。
「さあ、旦那さま、」と彼が言った。「参りました。どうか神さま、何も変ったことがございませんように。」
「アーメン、プール、」と弁護士が言った。
そこで召使頭はひどく用心深いやり方で戸をたたいた。戸は鎖のついたまま少し開かれて、内から誰かの声が尋ねた、「あんたかね、プールさん?」
「大丈夫だよ、」とプールが言った。「戸を開けてくれ。」
二人が入ってみると、広間はあかあかと灯火をつけてあった。炉火も盛んに焚きつけてあった。そしてその炉のあたりに、家中の召使が、男も女も、羊の群れのようにごたごたとより集まっていた。アッタスン氏の姿を見ると、女中が急にヒステリックなすすり泣きを始めたし、料理女は「あら有難い! アッタスンさまだわ、」と叫びながら、まるで彼に抱きつこ
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