アッタスン氏はハイドの名を聞いただけでもう心がひるんでいた。がステッキが前に置かれると、もう疑うことができなかった。折れていたんではいるけれども、それは何年も前に彼自身がヘンリー・ジーキルに贈ったステッキであることがわかったのだ。
「そのハイド氏というのは小柄な男ですか?」と彼は尋ねた。
「並外れて小柄で、並外れて人相が悪い、とその女中が言っているのです、」と警官が言った。
 アッタスン氏は思案した。それからやがて顔を上げて言った、「僕の馬車で一緒にお出でになれば、その男の家へお連れできると思います。」
 この時分には朝の九時頃になっていて、この季節になってから初めての霧が立ちこめていた。大きなチョコレート色の棺衣《かんおおい》のような霧が空一面に垂れ下っていた。しかし風が絶えず、この戦陣を張った水蒸気を、攻めて追い散らしていた。だから、馬車が街から街へとゆらゆら進んでゆく時に、アッタスン氏は、薄明りが濃く淡く驚くほどさまざまな色合いを示しているのを見た。あるところでは夕方遅くのように暗いかと思えば、またあるところでは、大火事か何かの明りのように、濃いもの凄い褐色の輝きがあった。また、あるところでは、一時、霧がすっかり散って、やせ細った一条の日光が渦巻く雲の間からちらりと射し込んでくるのであった。こういう刻々に変ってゆく閃光の下で見る陰気なソホーの区域は、泥だらけの路や、だらしない通行人や、これまでずっと消したことがないのか、それとも、またも襲って来る陰気な暗さにそなえて新たに火を点けたのか、それらの街灯などと共に、弁護士の眼には、悪夢のなかで見るどこかの都会の一地域のように見えた。その上、彼の心に浮かぶ考えも至って憂欝な色を帯びていた。そして、彼が自分の同乗者をちらりと見る時に、正しい人をも時としておそうことのある、法律と、法律の執行者とに対するあの恐怖を、かすかに感じたのであった。
 馬車が言いつけた番地の前に停った時、霧が少しはれて、くすんだ街や、けばけばしく飾り立てた酒場や、低級なフランス式料理店や、三文雑誌や安サラダを売る店や、あちこちの家の戸口にむれ集まっているぼろ服を着たたくさんの子供たちや、朝酒を飲みに鍵を手にして出てきたいろんな国々の大ぜいの女たちなどが、彼の眼に映った。それから次の瞬間には、黄土のように茶色の霧が再びそのあたりに下りて、彼をその野
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