それは、私の眼の前に――色蒼ざめてぶるぶる震え、半ば気を失い、死から蘇った人のように手で前方を探りながら――ヘンリー・ジーキルが立っていたからである!
それから一時間ばかりの間に彼が私に物語ったことは、私はとても書く気になれない。私は確かに見、確かに聞いたのであり、私の心はそのために病んだ。しかしながら、そのとき見たことが私の眼から消えてしまった今、そのことを信ずるかと自分に尋ねてみると、私は答えることができない。私の生命は根こそぎ揺り動かされている。睡眠は私を見棄ててしまった。最も烈しい恐怖が昼も夜も絶えず私の傍を離れない。私は自分の余命が幾らもなく、自分が死ななければならないことを感ずる。しかも私は信じられぬままで死ぬであろう。あの男が悔悟の戻さえ流しながら私にうち明けた悖徳行為については、思い出してもぞっとする。私は一つのことだけ言っておこう、アッタスン、そしてそれだけで(もし君がそれを信ずる気になれれば)十分であるだろう。その夜、私の家へ忍び込んで来たかの人間は、ジーキル自身の告白によれば、ハイドという名で知られ、カルーの殺害者として全国の隅々までも搜索されている男なのであった。
[#地から2字上げ]ヘースティー・ラニョン。
この事件に関するヘンリー・ジーキルの委しい陳述書
私は一八――年に大財産の相続者として生まれた。その上すぐれた才能を恵まれ、生まれつき勤勉な性質で、わが同胞の賢明な人や善良な人を尊敬することを好んだ。だから、誰にでも想像されるように、名誉ある、すばらしい将来を十分に保証されていた。だが、実のところ、私の一ばん悪い欠点は抑えることのできない快楽癖だった。それは、多くの人たちを楽しませもしたが、また、気位が高くて世間の前では人並以上にえらそうな顔をしていたいという私のわがままな欲望とは、折合い難いものであった。そのために、私は自分の遊楽を人に隠すようになり、分別のある年頃になって、自分の周りを見回し、世間での自分の栄達と地位とに注意するようになると、私はもはや深い二重生活をしていたのであった。私がやったような不品行は、かえって世間に言いふらした人も多いだろう。しかし、私は、自分の立てた高い見地から、それをまるで病的と言ってもよいほどの羞恥の念をもって眺め、また隠したのである。だから、私をこんな人間に作りあげ、また、人間の性
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