をかかえて窓へ近づいてきたとき、水夫は胆をつぶして避雷針の方に身をすくめ、その避雷針を這《は》い降りるというよりもむしろ辷《すべ》り降りて、一目散に家へ逃げ帰った、――その凶行の結果を恐れ、また恐怖のあまり猩々の運命についてのいっさいの懸念をすっかり棄ててしまって。階段の上で人々の聞いた言葉というのは、猩々の悪鬼のような声とまじった、そのフランス人の恐怖と驚愕《きょうがく》との叫び声であったのだ。
もうこの上につけ加えることはほとんどない。猩々は、扉がうち破られるすぐ前に、避雷針を伝って部屋から逃げ出したにちがいない。窓はそこから出るときにしめて行ったのだろう。その後、猩々は持主自身に捕えられ、植物園《ジャルダン・デ・プラント》に非常な大金で売られた。ル・ボンは、我々が警視庁へ行って(デュパンの多少の注釈とともに)事情を述べると、すぐに釈放された。警視総監は、私の友に好意を持っていたけれども、事件のこの転回を見て自分の口惜《くや》しさをまったく隠しきれなくて、人はみんな自分自分のことをかまっていればいいものだ、というような厭味《いやみ》を一つ二つ言うよりほかにしようがなかった。
「なんとでも言わしておくさ」べつに返事をする必要もないと思っていたデュパンはこう言った。「勝手にしゃべらせておくさ。それでご自分の気が安まるだろうよ。僕は奴《やっこ》さんの城内で奴さんをうち負かしてやったのだから満足だ。だが、あの男がこの怪事件を解決するのにしくじったということは、決して彼自身が思っているような不思議な事がらじゃない。なにしろ、実際、わが友人の総監は少々ずるすぎて考え深くないからね。彼の知恵[#「知恵」に傍点]には雄蕊[#「雄蕊」に傍点]がないのだ。女神ラヴェルナの絵みたいに、頭ばかりで胴がない。――あるいは、せいぜい鱈《たら》みたいに頭と肩ばかりなんだ。しかしまああの男はいい人間だよ。僕はことに、あの男が利口そうな口を利くことに妙を得ているところが好きなんだ。そのおかげで奴さんは俊敏という名声を得ているんだがね。奴さんのやり口というのは『|あるものを否定し、ないものを説明する《ド・ニエ・ス・キ・エ・エ・デクスプリケ・ス・キ・ネ・パ》』(原注)というのさ」
原注 ルソーの[#ここから横組み]“〔Nouvella He'loises〕”[#ここで横組み終わり]
底本:「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社
1951(昭和26)年8月15日発行
1977(昭和52)年5月10日40刷改版
1997(平成9)年12月25日77刷
底本の親本:「エドガア・アラン・ポオ小説全集」第一書房
1931(昭和6)年〜1933(昭和8)年
初出:「グレアム雑誌」
1841年4月号
入力:大野晋
校正:j.utiyama
1999年7月6日公開
2009年2月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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