を受け取りに来ることを――ためらうだろう。彼はこう考えるだろう、――『己《おれ》には罪はない。己は貧乏だ。己の猩々は大した値打ちのものだ、――己のような身分の者には、あれだけでりっぱな財産なんだ、――危険だなんてくだらん懸念のために、あれをなくしてたまるものかい? あれはいますぐ己の手に入るところにあるのだ。あの凶行の場所からずっと離れた――ボア・ド・ブローニュで見つかったんだ。知恵もない畜生があんなことをしようとは、どうして思われよう? 警察は途方に暮れているのだ。――少しの手がかりもつかめないのだ。あの獣のやったことを探り出したにしたところで、己があの人殺しを知っていることの証拠は挙げられまいし、また知っていたからって己を罪に巻きこむことはできまい。ことに、己のことは、わかっているのだ[#「己のことは、わかっているのだ」に傍点]。広告主は己をあの獣の所有者だと言っている。彼がどのくらいのところまで知っているのか、己にはわからない。己のものだとわかっている、あんな大きな値打ちの持物をもらいに行かなかったら、少なくとも猩々に嫌疑がかかりやすくなるだろう。己にでも猩々にでも注意をひくということは利口なことじゃない。広告に応じて、猩々をもらってきて、この事件が鎮まってしまうまで、あいつを隠しておくことにしよう』というふうにね」
 このとき、階段をのぼってくる足音が聞えた。
「ピストルを用意したまえ」とデュパンが言った。「しかし僕が合図をするまでは撃ったり見せたりしちゃあいけないぜ」
 家の玄関の扉はあけっ放しになっていたので、その訪問者はベルを鳴らさないで入り、階段を数歩のぼってきた。しかし、そこでためらっているようだった。やがて、その男が降りてゆくのが聞えた。デュパンは急いで扉のところへ歩みよったが、そのときふたたびのぼってくる音が聞えた。今度はあと戻りせず、しっかりした足どりでのぼってきて、我々の部屋の扉をとんとんと叩いた。
「お入りなさい」と、デュパンが快活な親しみのある調子で言った。
 一人の男が入ってきた。まちがいもなく水夫だ。――背の高い、頑丈な、力のありそうな男で、どこか向う見ずな顔つきをしているが、まんざら無愛想な顔でもない。ひどく日焦《ひや》けしたその顔は、半分以上、頬髯《ほおひげ》や口髭《くちひげ》に隠れている。大きな樫《かし》の棍棒をたずさえていたが、そのほかには何も武器は持っていないらしい。彼はぎごちなくお辞儀をして、「こんばんは」と挨拶した。そのフランス語の調子は、多少ヌーフシャテル訛《なま》りがあったが、それでもりっぱにパリ生れであることを示すものだった。
「やあ、おかけなさい」とデュパンが言った。「あなたは猩々のことでお訪ねになったのでしょうな。いや、たしかに、あれを持っておられるのは羨《うらや》ましいくらいだ。実にりっぱなものだし、無論ずいぶん高価なものにちがいない。あれは何歳くらいだと思いますかね?」
 その水夫は、なにか重荷を下ろしたといったような様子で、長い溜息《ためいき》をつき、それからしっかりした調子で答えた。
「わたしにはわからないんです、――が、せいぜい四歳か五歳くらいでしょう。ここに置いてくだすったんですか?」
「いやいや、ここにはあれを入れるに都合のいいところがありません。すぐ近所のデュブール街の貸廐《かしうまや》に置いてあるのです。あすの朝お渡ししましょう。もちろん、あなたは自分のものだということの証明はできるでしょうな?」
「ええ、できますとも」
「私はあれを手放すのが惜しいような気がしますよ」とデュパンが言った。
「あなたにいろいろこんなお手数をおかけして、なんのお礼もしないというようなつもりはありません」とその男は言った。「そんなことは思いもよらなかったことです。あれを見つけてくだすったお礼は――相当のことならなんでも――喜んでするつもりです」
「なるほど」と友は答えた。「それはいかにもたいそう結構です。こうっと! ――なにをいただこうかな? おお! そうだ。お礼はこういうことにしてもらおう。あのモルグ街の殺人事件について、君の知っているだけのことを、一つ残らずみんな話してくれたまえ」
 デュパンはこのあとのほうの言葉を、非常に低い調子で、非常に静かに言った。また、同じように静かに扉の方へ歩いて行って、それに錠を下ろし、その鍵をポケットに入れた。それから彼は懐中からピストルを出し、まったく落ちつき払ってそれをテーブルの上に置いた。
 水夫の顔は、ちょうど窒息しかけて苦しんでいるかのように、赤くなった。彼はすっくと立ち上がって、棍棒を握った。しかし次の瞬間には椅子にどっかと腰を下ろし、がたがた震えて、まるで死人のような顔色になってしまった。彼はひと言も口を利かなかった。私は心の底からこの男をかわいそうに思った。
「ねえ、君」と、デュパンは親切な調子で言った。「君は必要もないのにびくついているんだ、――まったくさ。僕たちはなにも悪気《わるぎ》があってするのじゃない。僕たちが君になんの危害を加えるつもりもないことを私は紳士としての、またフランス人としての名誉にかけて誓う。君があのモルグ街の凶行について罪のないことは私はよく知っている。しかし、君があれにいくらか関係があるということを否定するのはよくない。いま言ったことから、私がこの事件について知る手段を持っていたことは、君にはわかるはずだ、――君には夢にも思えない手段だがね。いま、問題はこんなことになっているのだ。君は避けうることは何もしなかったし、――またたしかに罪になるようなことは何もしなかった。君は罪にならずに盗めるときに、盗みの罪さえ犯さなかったのだ。君にはなにも隠すことはない。隠す理由もない。一方、君はぜひとも君の知っているだけのことをみんな白状する義務がある。一人の罪のない男がいま牢《ろう》に入れられているのだが、その男に負わされた罪の下手人を君は指し示すことができるのだ」
 デュパンがこう言っているあいだに、水夫はよほど落ちつきを取りもどしてきた。しかし、彼の初めの大胆な態度はもうまるでなくなってしまった。
「じゃあ、ほんとうに」と、しばらくたってから彼は言った。「あの事件についてわたしの知っていることをすっかりお話ししましょう[#「しましょう」に傍点]。――だが、わたしの言うことの半分でもあんたが信じてくださろうとは思いません。――そんなことを思うなら、それこそわたしは馬鹿です。でも、わたしには罪はないのです[#「のです」に傍点]。だから、殺されたっていいから、残らずうち明けましょう」
 この男の述べたことは大体こうであった。彼は近ごろインド群島へ航海してきた。彼の加わっていた一行が、ボルネオに上陸し、奥地の方へ遊びの旅行で入って行った。そのとき、彼と一人の仲間とが猩々を捕えたのだ。この仲間の男が死んだので、その動物は彼一人のものになった。そいつの手に負えない獰猛《どうもう》さのために、帰りの航海のあいだじゅう彼はずいぶん困ったが、とうとうパリの自分の家に無事に入れてしまうことができた。そして近所の人々が自分に不愉快な好奇心を向けないように、猩々が船中で、木片で傷つけた足の傷が癒《なお》るまで、注意深くかくまっておいた。それを売ろうというのが、彼の最後の目的だったのだ。
 あの殺人のあった夜、いや、もっと正確に言えばあの朝、彼は船乗りたちの遊びから帰ってくると、その獣が、厳重に閉じこめておいたと思っていた隣の小部屋から、自分の寝室の中へ入りこんでいるのを見つけたのだった。猩々は剃刀を手に持ち、石鹸泡《せっけんあわ》を一面に塗って、鏡の前に坐って顔を剃《そ》ろうとしていた。前に主人のやるのを小部屋の鍵穴からのぞいていたものにちがいない。そんな危険な凶器が、そんな凶猛な、しかもそれをよく使うことのできる獣の手にあるのを見て度胆を抜かれてしまい、その男はしばらくはどうしていいか途方に暮れた。しかし、彼はそいつがどんなに荒れ狂っているときでも、鞭《むち》を使って鎮めるのに慣れていたので、今度もそれをやってみようとした。その鞭を見ると猩々はたちまち部屋の扉から跳び出し、階段を駆けおり、それから運わるく開いていた一つの窓から街路へと跳び出したのであった。
 そのフランス人は絶望しながらもあとを追った。猩々はなおも剃刀を手にしたまま、ときどき立ち止って振りかえり、ほとんど追いつかれそうになるまで、手まねをして見せた。それからまた逃げ出した。こんなふうにして追跡は長いあいだ続いた。かれこれ朝の三時ごろのことであったから、街路はひっそりと静まりかえっていた。モルグ街の裏の小路へ通りかかったとき、レスパネエ夫人の家の四階の部屋の開いた窓から洩れる明りに、猩々は注意をひかれた。その家の方へ走りより、避雷針を眼にとめると、想像もつかぬほどのすばやさでよじ登り、壁のところまですっかり押し開かれていた鎧戸をつかみ、その鎧戸で寝台の頭板のところへじかに跳びついた。これだけの離れわざが一分もかからなかったのだ。鎧戸は猩々が部屋へ入ったとき蹴かえされてふたたび開いた。
 その間、水夫は喜びもしたが、当惑もした。猩々の跳びこんでいった罠《わな》からは避雷針のほかには逃げ路はほとんどないのだし、その避雷針を降りてくれば取り押えることができようから、彼は今度こそつかまえられるという強い希望を持った。また一方では、家のなかでなにをするかという心配が多分にあった。この後のほうの考えから彼はなおも猩々のあとを追った。避雷針は造作なくのぼれるし、ことに船乗りにはなんでもない。だが、彼が左方ずっと離れたところにある窓の高さまで行きつくと、それから先は進めなかった。せいぜいできることは、身を伸ばして部屋のなかをちらりと覗《のぞ》くことだけだった。そうして覗くと、彼はあまりの怖ろしさに、つかまっている手を危うく放しそうになった。モルグ街の住民の夢を破ったあの恐ろしい悲鳴が夜の静寂のなかに響きわたったのは、このときのことであった。寝衣《ねまき》を着たレスパネエ夫人と娘とは、部屋の真ん中に引き出してある、前に述べたあの鉄の箱のなかのなにかの書類を整理していたらしい。それはあけてあって、なかの物はその側の床の上に置いてあった。被害者たちは窓の方へ背を向けて坐っていたにちがいない。そして猩々の入りこんだのと、悲鳴のしたのとのあいだに経過した時間から考えると、すぐには猩々に気がつかなかったらしい。鎧戸のばたばたした音はきっと風の音だと思われたのであろう。
 水夫が覗きこんだとき、その巨大な動物はレスパネエ夫人の髪の毛(ちょうど梳《す》いていたので解いてあった)をつかんで、床屋の手ぶりをまねて、彼女の顔のあたりに剃刀を振りまわしていた。娘は倒れていて身動きもしない。気絶していたのだ。老夫人が悲鳴をあげ、身もだえしたので(その間に髪の毛が頭からむしり取られたのだが)、猩々のたぶん穏やかな気持がすっかり憤怒の気持に変った。その力強い腕で思いきり一ふりすると、彼女の頭を胴体からほとんど切り離してしまった。血を見ると猩々の怒りは狂気のようになった。歯を食いしばり、両眼から炎を放って、娘の体に跳びかかり、その恐ろしい爪を咽喉へ突き立てて彼女の息が絶えてしまうまで放さなかった。猩々のきょろきょろした血ばしった眼つきが、このときふと寝台の頭の方へ落ちると、その向うに、恐怖のために硬《こわ》ばった主人の顔がちょっと見えた。たしかにあの恐ろしい鞭をまだ覚えていた猩々は、怒りがたちまち今度は恐怖に変った。罰を受けるようなことをしたと悟って、自分のやった凶行を隠そうと思ったらしく、ひどくそわそわして部屋じゅうをとびまわり、そのたびに家具をひっくり返したりこわしたりし、また寝台から寝具をひきずり落したりした。とうとう、まず娘の死体をつかんで、のちに見つけられたように、煙突のなかへ突き上げ、それから老夫人の死体をつかんで、すぐ窓から真っ逆さまに投げだした。
 猩々がその切りさいなんだ死体
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