方を見ると、高い山が重なり重なり、自分の立っている、右手の方に続いている。自分の今立っているところはその山でかこまれた雪の平だ。
自分が全身に日光を浴びてまぶしい雪の反射の中に立っていると、S君が出て来た。顔がはれぼったくなっている。
「昨日、来たのは、彼方《むこう》だね。」と自分は今見ていた方を指して聞いた。
「そうそう。あすこにあるちょっと光った低い山の向うに当たる。」
「東かい?」
「いいえ、……(S君は以っての外と言ったように首を振った)西。東はうしろですよ。」
と、くるっと振り返った。
「ヘェ、どうもそうは思われない。」と、自分も振り返った。すると、
「あれがよく話した六角牛《ろっこし》ですよ。」と縁から正面に見えた、まるい大きい山を指して、
「あの上がちょうど真東に当たる。」
「あれが六角牛か、なるほど、じゃ早池峰《はやちね》は?」
「早池峰は来た方ですよ。とてもここから見えない。」
この二つの山は、兼てS君が郷里の話をするたびに幾度か聞いて、耳に馴れた名である。
午すこし過ぎた頃になると、空は見る間に灰色の雲が閉《とざ》してしまった。やがて雪が降りはじめた。日の暮れるころから、風が少し出た。
夜、この村で操人形《あやつりにんぎょう》があると言うので、二人で見に行くことにした。晩餐《ばんさん》がすむと、S君の襟巻を借りて、それで頭からスッポリと包んで目ばかり出した。用意ができると、提灯に火をつけて、昨夜はいって来た裏口の方から出た。二人とも、草履を穿《は》いて、ギシギシと、今日降った雪を踏みつけて行く。
畑も、道も一帯に区別がなくなっている雪の中を一條、踏みつけた道ができている。それを歩るいて[#「歩るいて」はママ]行くのである。寒い風の吹きつけてくるなかを行く。自分には方角がわからないが、足もとばかり気にしてまだかまだかと、思いながら行くと、やっと、人の声ががやがや聞こえる。雪の中に三人五人と一団になって立っている。
そこは、やはり百姓屋の一軒で、ずっと軒のところにはいって行くと、真暗な縁にも人が集まっている気配がする。
家の中にはいると、湿った臭《におい》の沁みたような気が顔を打つ。S君はそこにいる若い男に頻りと挨拶をして、室の中にはいった。
室の中には、女や子供が二十人ばかりいた。自分達がはいって行くと、一時に振り返ったが、不思議そうな顔をして、じっと見ている。思いがけないような、物珍らしそうな、恐れているような、目だ。……そして目でじっと見ながら何か小声で話している。
室は板敷の上に筵《むしろ》が敷いてある。正面の舞台には毒々しい更紗《さらさ》模様《もよう》の幕が下りている。
自分達ははいると、雪でぬれた足袋や、靴下をぬいでいると、前の方に火鉢を取り廻わしていた女達が火鉢の傍《わき》を退《の》いて、S君に座をすすめた。そこに女達の中に交って座を占めた。
九時近くなる頃まで、舞台の幕は下りたままだった。自分はひそかに退屈してしまった。
そのうちに見物が次第に一杯になって来た。牛のような頑丈なからだをした男達がうしろの方にずっと並んだ。
長々と、今夜の人形、新しく改良したものであると言う前口上があって、やがて幕が明いた。人形はやはり古く汚れている。土の上に塗った胡粉《ごふん》の色が冷く白い。それに死んだ人のような指をした人形が目を一つところに据えて踊り出した。自分はこれが子供の時から恐ろしく思われるものの一つだ。久しぶりでまたそれを見たのだ。
それで、目をそらして見物の方を見ると、傍にいる女達が小さな可愛いい目を見はって、一心に舞台に見入っている。うしろの方からも折々「今度のは余程うまい」と言うような賞讃の辞が聞こえる。
やがて、一幕すんだ。方々で話がはじまる。女達は目をキョロキョロさせて、四辺《あたり》を見廻わしている。この女も同じように、綺麗な鳥のような目をしている。色の黒い、垢のついた、しかし、肉付きのいい、まるみのある顔をして、その鳥のような目でキョロキョロしながら、女らしい透る可愛いい声で物を言うのを見ていると、自分はこの田舎の女が、家に飼われている、猫か鳩かのように思われた。
どんなにか、弄《おもちゃ》にして、可愛がって見たらば面白かろうかと思った。それに連れて、或る時に読んだ文明人が野蛮人の女を、野獣をおもちゃにするようにして、可愛がっている話を思い浮かべた。
二幕目がすんだ時に帰って来た。もう夜がかなり更けていた。自分は今夜、村の人の集まっているところに一緒になって坐っていたのが、非常に物珍らしく思った。
三
雪があがるかと思うとすぐ降ってくる。一雪降ると、六角牛《ろっこし》の峰にはほかの山よりも、一層深く積る。やがて空が晴れる。と、それが日に
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