は荷物でも積むと見えて動かない。私は仕方なしに別れるときに送られたI君、M君の写真を、今更らしく出して見た。と、窓の外から肩をたたく。振り返るといつの間にかS君が立っていて、「これをおあがりなさい。」と、鶏卵《たまご》を一つ出してくれる。「いらない。僕はたくさん。」と言うと、「では、今夜H町で逢いましょう。」と言って、とっとっと歩いて行った。私は今日一日、この狭い箱のような馬車で揺られて十三里の道を行くのだと思って見ると、今からうんざりする。頭には弾力がなくって、ぼっとなっている。
馬車がまた動き出した。
町をはずれると川に沿って走った。この道はH町までの間は広い野に出るかと思うと、山に沿った渓の上を行く。
川を離れると、広い畑の中を走る。雪がむら消えをしている。畑には林檎が植えてあるが、雪の中に、黒い枯木のようになってつづいている。この周囲には何方《どちら》を見てもけわしい高い山がつづいて、この広い野を取りかこんでいる。そしてところどころに家が一軒二軒見えるほかには、雪が白々と日に照らされていて、人の影も疎《まばら》である。
その中を馬車が二台、揺り上げ、揺り下げして走って行くのである。
私はS君の姿がこの野の中に見え出してくるのを、ただしきりに待って、後の方ばかり気にしていた。
そのうちに、S村に着いた。馬車が止ると、二人の若い男が飛び下りてそとに出た。ここはT町を離るること一里半、第一の宿である。私がくる時には吹雪の中で、日がとっぷり暮れてからここに着いた。
私は所在のない、ものうい心持ちがしながら馬車の動くのを待った。
五
馬車の垂幕の下から見ると、私の乗って来たあとは、平らな林檎畑のあいだに、広い道が一条ついている。その道には人の影も見えない、両側の畑にはまだ雪が解けていない。そのあいだに黒い道がはるかに続いているのだ。
いま昼の時に来て見ると、この茶店はその道のかたわらに二三軒、ぽつりと家が並んでいるだけで、空も、道も灰色をしている。家も古びてよごれている。私はそれを見て自分の胸の中に映っていた忘れられない記憶を拭き消されたように思った。――くる時にこの村で感じた、不思議な、自然の生きた大きい目で睨みつけられたような記憶――吹雪でこの野は暗く、その奥から、ひそかに深い吐息でもするように、灯が見えていた。馬車を出て雪のなかを
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