鼠のような小さい馬だった。
 馭者は二人で、手綱をとって引き起こそうとした。一人の方は息を切らして働いている。私達の乗った方のは、口きたなく罵りながら、それに手伝っていた。
 馬は鼻を開いて苦しそうな息をしながら、いくども泥を蹴って起きようとした。瘠せた骨の見える腹を力なく波打たせては、全身に力を入れるけれど、どうしても起きなおることができない。そして又ぐったりと泥の上に寝てしもう。
 馭者はその脊に靴をあてて、力を入れた。枯れた木を打つような音がする。私はそれを見ながら、このまま、この馬は死ぬだろうと思った。
 いよいよ馬が起きないので馬車の柄ははずされた。そして引き起こされた。
 半身泥まみれになった馬は、腹に波を打たせながら、その泥の中に立った。
「この馬に引かせるのか?」と立って見ていた客の一人が言った。
「仕方がねぇやね。」と、馭者は振り返った。
「この山の中で、どうなるもんで。」と言って馬を泥の中から引き出した。
「歩く! しまいまで歩く!」と言って丈の高い商人風の客は大きい信玄袋《しんげんぶくろ》をさげた。
 私はそこに立っていた同じ車の人と一緒に、引き返して来た。そして馬車に乗った。
 やがて、私達の馬車がそろそろと動き出すと、そのあとから六人の……後の馬車の客がなにかひどく興奮したらしく、元気よく歩いて来た。商人は足駄をはいていた。そのほかには老婆もいた。
「重ね、重ね、今日は、運の悪い日だ。」と車の中で一人が言った。

 やがて川が見えた。瀬の音が低い下の方で聞こえる。
 と、ガラガラと音をさせていま倒れた馬車が駆けて追いついて来た。馭者が馬の口を取っている。今、倒れて死ぬのかと思った馬が、それに引かれて駆けて来た。
「や、乗れるのか?」と、私の車に沿って歩いていた商人は言って立ちどまった。
「さ、この馬は弱っとるのだから、半分ずつ乗って、三人は歩いてやっとくんなさい。」と馭者は言った。
「おれは歩く。」そのなかにいた一人の青年は言って、勇ましく歩き出した。
 で、後を見ると、いつの間にか、その馬車の客はまた大分乗ってしまった。その青年も馬車について駆けていたが、やはりあとから飛び乗っていた。
 半時間もたつと、馬車の中で、その出来事を忘れたように、世間話をはじめ、やがて居眠りをはじめた。

 猿ヶ石川に沿った道は長い。やがて、高い山の中腹からしだいに下って行くと、やがて道が真西に向いた。石を切り開いたところに出てかなたを見ると、今赤く日が落ちようとしている。空気が乾燥しているので、真赤に燃えているような日の光をしている。と、馭者はラッパを吹き立てて駆け出した。あとの馬車も、六人の人を乗せて駆けてきた。やがて小さな村にはいった。

 ここで馬を取り返えると言って、客は皆おろされた。ここは山のあいだから出て平地を望むようなところだ。広い平野が裾野を見るように一目の中に見える。それを見て立っているうちに、日はその平地の先きの方の山に沈んで行った。
 黄昏《たそがれ》は迫って来た。私は今朝から長い道のあいだを思い返していると、遙かな遙かな山の中から出て来たようだ。そして一|刻《こく》ずつに昏《くら》くなって行くその平地を見ていると、心に来てなにかものを言うものがあるようだ。
「お前!」と言ってくれるものが……。
 私はからだをまわして見た。客の人達は黒く一団になって、薄闇の中に立っている。二つ三つ煙草の火が赤く見える。

「どちらまでおいででした?」と私のところに歩き寄って来て例の僧が言った。
「遠野まで行きました。」と私は答えた。
「何か御用事でも。」
「いいえ、友人に会いに来ました。」
「へえ?」としばらく私の顔をじろじろ見ていたが、
「御職業は?」と無遠慮に聞いた。
「学生です。」と私はすげなく答えた。
 すると、その僧は鼻であしらうような素振りをして、くるっと傍を向いてしまった。私は一歩退いた。そして当てもなく野の方を見た。
 私は人間が嫌いになった。



底本:「遠野へ」葉舟会
   1987(昭和62)年4月25日発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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