たの馭者は渋い顔をしてそれを受けた。
「一台か?」あとの馬車からは不平らしい声をかけた。
「あとはすぐくる。」とそっけなく言って、その馭者は馬車を止めた。こっちでも、
「では、さきの方から乗り換えるのか?」と言って馬車を止めた。私達は入口の方の人から順々に降りて花巻の方の馬車に乗った。馭者は荷物を交換して、積み込み、馬の方向《むき》を変えた。私達はこれでやっと安心したと思いながら、あたりを見ていると、あとの方から、
「何だと!」と言う声がした。
「何でもない。五銭が当り前じゃ。」と、ふとった男の声がする。車の中では耳をそばたてた。
「五銭? 一人前七銭宛くれていい、お前達がこねぇから、客が困るっていうんだ。それでわざわざ車を出して来たんじゃないか。」と、のどを嗄《から》すような声で一人が言う。
「馬鹿こけ。五銭でいやなら一文もやらぬ。」
「何だと?」
「何だと。」
「一体、お前達は……」と、一方がここまで出て来たことを繰り返して罵《ののし》り立てた。それに向って、花巻から来た馭者はどうしてもその二銭を出さぬと言って罵る。
ガタリ……と車の中ではあとの方で二人の喧嘩するのに耳を立てて聞いていると、不意に馬車が動き出した。中の者はそれに驚いて見ると、馬は退屈そうに、ごとりごとり歩き出した。うしろに大きい車を引きずっているのもかまわぬと言った態《ふう》で、首を長く伸して道ばたの草を喰いはじめた。それでからだを移すたびに、車はかたりと動く。
二人の喧嘩はまだ止まぬ。また馬車が動いた拍子に、輪が道のこわれかかったところにはいって車が傾いた。
「ワッ!」と中から叫んで立ち上ろうとしたものがある。
と同時に、一人が笑い出した。
「危い、危い、一体客をどうするんだ。」と一人が言った。
「困るな。自分達の喧嘩はあとにしろ!」と言って一人が笑った。
私は黙っていたが、この時に、
「これではうかうかすると今夜花巻に着けるかどうか分らないでしょう? どうです。皆でその二銭だけ奮発してすぐ出して貰っては……」と言って、車の中を見廻わした。すると、誰れも口を噤《つぐ》んでしまって知らぬ顔をする。私はカッとなった。で、自分一人でその金を払おうかと思ったが、この田舎漢《いなかもの》の卑吝《けち》な奴達のお先に使われるような気がして止した。
で、そのまま傍を向いて、窓からそとを見た。すると、今乗って来た馬車の馬が、長い綱の先きが杭に縛りつけてあった杭のまま、それを引きずりながら悠々と東の方に歩いて行く。
まわりはしん[#「しん」に傍点]として、薄曇《うすぐもり》のした空の下に、水の流れる音も聞こえない。馭者の喧嘩の声はまだ聞こえる。
どこか、林の方で折ふし木を伐る音がする。冴えた、トン、トンという音が、広いところに響きわたって行く。寂寞とした灰色と黄昏のような色がみなぎっている。車の中ではまた不平を言い出した。実際このいつ出るとも知れぬ馬車を待っている心細さと言ったらない。
二人の声が低くなった。と思うと、馭者が真赤な顔をして、ブツブツと言いながら来た。
「日が暮れるぞ!」と待ち構えていた一人は言った。馭者は黙って返事もせず、轡《くつわ》をとると邪慳《じゃけん》に馬の首を引っ張って位置をなおした。
ところへ、あとの方から前の一人が駆けて来て、綱を引ずった馬に追い付くと、
「コーレ、シッ」と大きな声で言って叱るのが聞こえた。そして馬を引いて帰って来た。
私達の方の馭者も台に上った。そしていきなり、馬の尻に思うさま鞭をあてた。
これから西に向いて行くのだ。日の入る方に向いて……。
一町も行くと、第二の馬車に逢った。
まもなく、猿ヶ石川の岸にかかった。
と、後から、
「オーイ、オーイ」と呼ぶ声がする。私達の馭者はふと振り返ったが、急に馬車を止めた。
そして、
「チョッ! 業突張《ごうつくばり》!」と言いながら、車から下りた。あとにいた客は垂幕《たれ》を上げると、
「馬がたおれた。」と言った。車の中では顔を見合わせた。一様に誰にも不安な感が頭を走った。
「どうするんだ。これでいつ花巻に着けるんだ。」と一人が呟いた。
私は立って、その入口の人を越して外に出た。地に降りると、まずあたりを見た。山になったので、勾配のやや強い、上り坂の中程で、ずっと遠くの方にある山が相接して立っている。そのあいだは餘程深い谷であるらしい。山には薄い靄が、かかっている。
馬は二十間ばかり隔てたところに、道の一箇所でひどくぬかるみがする、その泥の中に倒れていた。馬車は大分傾いてわずかに保っている。乗客は降りて道の一方に困って立っていた。
「さっき、ひどく揺れた、あすこだな。」と思いながら、私はそこに歩み寄った。
馬は泥の中につまずいて倒れていた。瘠せた
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