がぼっと白く、重い幕を垂れたようになっている。私は深く呼吸をして、遠野! 遠野もやはり薄黒い、板造りの尖った屋根がならんだ、陰鬱な町だろうか……と思った。東京にいては私はこの寒い国がこれほど、親しみにくいとは思ってはいなかった。
 雪の中を発って町端れまでのろりのろりくると、私の方の馭者は、何かくどくど言っていたが、やけのようにピシリ、ピシリと馬を打った。それを見ると、
「由爺《よしおじ》、どうした?」と、中から例の老人が声をかけた。
「どうしたんでもねい。おれの車に五人も乗れるか。荷物もあとのより倍ある。」と、このキッカケに調子がついたと見えて、急に馬車を止めて怒鳴り出した。
 老人はしきりとなだめていたが、由爺は猛《たけ》り立《た》てて誰の言うことも聞かない。あとの方の馭者も、雪の中だから次の宿まで行けと言ったけれど、
「フン次の宿まで、……鱒沢までか。」と言って馬車を立てたまま動こうともせぬ。それで、こんども最後に乗った、毛糸の襟巻をした男が降りて、後の馬車に乗り換えた。

 馬車は小山の腹を一廻りまわった。道がまた緩い上りになっている。山の峡を登ってうねる道を二台の車がつづいて行く。私はまた、うしろの口の窓に肱をかけて、垂幕の下から雪の中に暮れて行く山を見ていた。積っている上にも雪が積って行く。
 後の馬車の白馬が全身を濡らして、白い息を吹きながら歩いてくる。馬という奴は大きいがどこか可愛い獣だ。と思っていると、この馬車と、白馬との間にぬっとその由爺が身を入れた。
 肩幅の広いのに兵卒の着る外套を着て、腹のところを皮帯でしめている。頭巾で頭から頤をつつんで、その間から、黒い荒い鬚がムシャムシャ生えた頬を見せている。手には長い枝を折って鞭にしたのを持ち、足には藁靴(ツマゴ)を穿いて、雪の上をのしのしと歩いてくる。熊のような男だが、ギロッとした目に言われぬ愛敬がある。そして東京では豆腐屋の持っているような貝の形をしたブリキのラッパに緒をつけて、肩からさげていた。歩きながら幾度となく、
「ホーッ!」と言って、腹から出たような大きな声をして、肩の上から覗き込もうとする、白馬の顔をはらった。

 疲れと、寒さと、……迫まってくる黄昏の色との中に馬車の中ではものを言う人もない。私はただ雪でぼっと白らんでいながら、大きい山も、深い渓も一様にじっと暗の中に沈んで行く眼前の景色を驚ろいて見ていた。自然がつく緩い深い吐息を聞いた。この奥に不思議な世界が静かに千年の昔から横わっているようで。……すると、後の馬車で垂幕を上げた。ほの白い中に見えるのは例の赤い面の男と、それに対い合ってのぼせたような娘の顔とだった。と同時に、その中から二三人が声を合わせて笑った。男も女もはしゃぐ絶頂にのぼっているような顔をしていた。男は例のように対手なしににたにたしていた。
 寒さが身に沁みてくる。私は幕をおろして、肱でからだを支えて、煙草をくわえたが、目をつぶっていると何とも知れぬ深い暗い底に堕ちて行くようだ。
 道はまだのぼりだと見える。私はいくどもからだを動かしては、そっと恐ろしいものを覗うようにしてそとの景色を見た。そしてじっと心が一つに集るようになってくると、折々、後の馬車でドッと笑う声が聞こえる。女がうわずった、少し熱でも病んでいるような声をして笑う。私は苦笑した。と、馬車は俄かに駆け出した。薄暗くなって行く中を嵐と雪との中にまじって狂うように駆けて行く。由爺は馭者台の上に腰をかけて、ラッパを吹いた。長い息で、いつまでも吹く。……その響きがこの人気のない山の中に響きわたる。それで馬も人も勇んでいる。
 ぼっとりと闇になってしまった。車の中では互いに顔が見えなくなるのをわびしく思った。で、そろそろ話をはじめた。
「一体、遠野に何しにおいでです?」と老人が今朝からの疑問を、はじめて私に聞いた。
「ええ? 友人がいますのでね。遊びに来ました。」私は軽くこう言って笑った。
「遊びに?」老人は信じないらしい口振りでつぶやいた。
「大変おもしろい話のある土地だと聞いていましたので。」と言うと、
「ハア、遠野が?」不思議そうにしているので、私は単純に遊びに来たとだけ言っても、腑に落ちまいと思って遠野に古跡があるそうだがと聞いた。と、こういうところに折々そういう人がくると見えて、私をこの地方の歴史の研究者だと思ったらしく、その方の土地の人を三四人紹介してくれた。それから話のいとぐちがついて、商人体の男も暗の中でいろいろの話をはじめた。私は幾度もマッチをすって時間を見た。遠野へ着くのは早くも十時過ぎだろう。私は心ひそかに夜更けてからの寒さを恐れた。
 由爺のラッパはますます調子よく響く。と、そとに燈火が見えて、馬車が十五六軒ならんだ家の間を通った。
「上鱒沢《かみます
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