脚下にかがやく。人のいうなる死は爰《ここ》に、人のいうなる生は彼処《かしこ》に、しかも壮と厳と、美と麗と、人が自らせばめた社会の思いおよばぬものは、わが立つ所ならずして、いずれにあるのだろう、七時すぎ、浅間の宿についた。雪中十時間。私はかなり疲れていた。

    差切新道、山清路

 木曾路に入ろうという計画をよして、きょうは西条へとむかう。
 松本平から見あげられる連山に分れて、正午西条についた。停車場の出口に見張《みはり》をしている巡査に、どこの宿がよかろうかときいて、古松屋というのに荷をおろす。山清路への案内を求むれば、「善さんとこ聞いて、来い、音さんどうだ」の末、ないという。さらばと二人は身支度して泥路をふむ。ゆく事しばし案内者を求めえて、雪斑なる聖山をのぞみつつ、県道を進む事二十町ほど、左、郡道、差切新道と、石のみちしるべあるところより折れて、すたすた仁熊、細田、赤松と、麻績《おみ》川にそうて、やや降り道。
 洗った足袋がつまるとて、M君は頻《しき》りに足をいたがる。草鞋《わらじ》も二度切った。一時五十分差切についた。岩は聳《そび》え、滝は氷っていた。進みゆけば小トンネルいくつか。岩は奇、されど惜しいかな、景が狭い。水の色もわるい。水上に炭山があると案内者がいう。私は来た路の田舎家に、「天下の絶勝、差切新道絵葉書」とあった看板をおもい出して、笑壺に入りながら、第三紀層の礫岩らしいのを叩いて通った。
 またいくつか里をこえてゆくと、橋普請の材木のみ徒《いたず》らに道を塞《ふさ》いで、橋桁《はしげた》すらない所がある。小さい川ながら頗《すこ》ぶる足場がわるい。道からわりに深い川床へとおりて、すぐまた上る。込地となればいくほどもなく、麻績川は犀《さい》川に流れ入る。山清路の景は、ここにひらける。川を流す材木とむる鳶口《とびぐち》が雪の途上によこたわっていた。さすがに差切新道よりは広い景、水の色も彼よりすぐれておる。主《ぬし》すむという淵の上、必ず冠《かぶ》り物《もの》をとるという船頭もおらず、時ならねば躑躅《つつじ》船もない、水は青く、しずかに流れていた。岩は冬とて膚を露わしていた。岩のかげには雪と氷とが住い、岩のおもてには灌木が赭《あか》らんでいた。橋をわたって、しばらくいって引きかえす。もう三時すこし廻った。差切新道をゆくおりも、この度は俯向《うつむ》きがち、あたりはお暗くなりそめた。泥濘が足をすう。
 くらい中を大声あげてくる男の群五、六人、何者ぞとすれちがうおり、かれこれ互に見やれば、肩には白いもの、何匹かの兎が闇に浮ぶ。猟師だったのだ。漢詩のようなと私は思った。案内は、さっきから頻《しき》りに腹がへったと訴える、まだ食物店のある所へは出ないのだ。暇をくれというのを、暗くっておあしもあげられないよと、すかしすかし氷砂糖などやって、県道との追分までつれてきた。七時、そこで分れて、闇の中を、ぴしゃぴしゃ西条へ。
 長野へゆく汽車はあれどもおそくなる。まあ泊ろうと、前の宿屋に草鞋をぬいだ。西石川の贅沢《ぜいたく》は望むでなけれど、夜の物などの浅ましさ、湯も立たぬ。

    信越線を

 昨夜もすこし雪が降ったのだ。凍れる朝を長野にいって、Kを驚かし、やまやという感心もせぬ旅宿に昼餐《ちゅうさん》したため、白馬山におくられ、犀川よぎり、小諸《こもろ》のあたり浅間《あさま》山を飽《あ》かず眺め、八ヶ岳、立科《たてしな》山をそれよと指し、落葉松《からまつ》の赤きに興じ、碓氷《うすい》もこゆれば、曾遊《そうゆう》の榛名《はるな》、赤城《あかぎ》の山々は、夕の空に褪赭《たいしゃ》色ににじんでいた。

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武石峠へゆこうという心を起させたのは中村清太郎氏の画、途を中央線にさせたのは小島烏水氏の文のおかげです。ここでお礼を申しあげておきとうございます。
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底本:「山の旅 大正・昭和篇」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年11月14日第1刷発行
   2007(平成19)年8月6日第5刷発行
底本の親本:「山岳 十の一」
   1915(大正4)年9月
初出:「山岳 十の一」
   1915(大正4)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年6月21日作成
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