みしめてのぼりゆく。尾根に出ても陰鬱な空、近山のほかは見えず、渓間《たにま》の黒松は雪をいただいて、足下ちかくならんでいる。M君がお正月らしいという。足あとさして、「誰か登った人があるね」といえば「この上で、いま木を切っているから、その杣《そま》でしょう」と、案内者が答える。セイシン坂すぎ、山辺みちに会する事二度、尾根をわたり、谷間に網はって、小鳥とる男にあった。すっぽりと頬かぶり、腕ぐみして、つくねんと立っていたその男が、私をみて「藁《わら》をかけねえでは、つめたかろう」という。M君も、私も、草鞋のほかに、足に藁をつけていなかったのだ。案内者がもう半分道きたろうかと尋ねると、まだだと答える。おしかぶさるような空を、私たちは望もなく進んでいった。雪の山。一時もすぎた、二時も過ぎた。夜に入っては、これまでの路に少し危くおもわれる所もあった。案内者は峠の小舎《こや》にたしかに泊れるといい、M君もとまってよさそうだったが、見わたす空に明日のよき兆《さが》しめすものは、露ないので、私はかえる方がよいと言い出した。三時、私たちはもと来し方へと引きかえした。賽《さい》の河原《かわら》で蜜柑《みかん》をたべて、降り路をぐんぐんおりた。いつか落葉松おうるあたりまできた。ドイツあたりのクリスマスの画みたようなとM君とかたるに、梢《こずえ》の雪がさらさらと落ちて顔にかかる。西山は二、三カ所、今し雪をふらしているのか、西北の天には黒い幕が垂れかかって、裾がふわりと山々を包んでいた。明日《あす》も大抵だめだねと言いながら、幾うねりして、物静かな山辺温泉。それから乾いた田をよこぎって浅間へ。六時すこしまわっていた。
二たび武石峠へ
「きのうよりはよいね」と、宿から常念《じょうねん》岳の鋭いピラミッド形なせる姿をながめて、私はM君にいった。「ようござんす」。「出かけるかね」。「出かけましょう」。九時十五分、私たちはまた草鞋《わらじ》をつけた。九時半、沢をのがれて尾根にいずれば早や佳境。土地の人のいう西山は、あらかた現れていた。「槍はまだ見えないか」。「もっと登ると見えます」と案内者は答えた。里の天候は、「晴、北風弱」とあるが、尾根はかなりの強い風。
私は黙々として、後《おく》れがちな歩を運んだ。樵夫にもおうた。きのうの小鳥とる男は、すこし低いところにおった。ふりつんだ雪のおもてには、白金の粉が宿っていた。十一時渋池、十二時大曲。ふりかえるごとに、山々が数をます。並んでいるのが穂高の三峰、かなたが御嶽《おんたけ》。雪は次第次第に深くなった。もう人の足跡はない。兎の足あとらしい三つ指ついたのが、かなたの谷へ、長く長く引いている。足の甲だけが雪に埋《うず》まったのは、とうの前。雪は脛《すね》に及び、膝に及び、腿《もも》におよび、あらぬ所に足ふみこめば、腰にすら及ばんとする。M君がさす金剛杖の手許《てもと》わずかに残る所もあった。夏ならば何なるまじき境、しかも冬の信濃の山は、一歩ごとに私の知らぬ世界であった。私たちはただもう進む。案内者は、いつか先へいってしまった。足の弱い私をまもりつつ、後からM君が気づかわしそうに辿《たど》る。足は滑る、金剛杖は流れる。雪の上ならで、雪の中を滑るのだから、きわめて緩《ゆるや》かに、左手の谷へとおちてゆく。おちるなおちるなと思っても足がとまらぬ。それが滑稽《こっけい》でもあり、無念でもある。もう五千尺以上の高み、それに尾根ゆえ、これという樹も育たぬ。灌木は雪にうもれて、手がかりにならぬ。それでも、どうやら踏止まった。私たちは袴越《はかまごし》山(五千七百八十尺)の胸のあたりをとおっていたのだ。前面とおくに、ちらとした雪の山、あとで、それを赤石だときいた。踏みこめば、ずぶりと穴のあく、ぱさぱさの雪、その雪の穴から足を抜いては、またまえの銀世界に穴をあけて、膝をするようにしてゆく。疲れたと見える。幾度か転んで、M君をひやひやさせた。かくして三時ちかく峠の小舎《こや》にたどりついた。海抜六千尺。小舎は富士などの室のように、山かげに風をさけた細長い一つ家だった。荷をおいて迎えに来た案内者につれられてはいったが、榾火《ほたび》のめらめらと燃えあがるのを見るだけで、あたりが暗い。白雪《しらゆき》の中から来た私たちの眼は、屋内の幽《かす》かな光になれるまで、何をも識別し得なかった。
M君が、「あああすこに人がいる」という。それが、ここで蚕《かいこ》の種紙をまもっている番人の爺さんだった。柴をくべ、もって来た餅を焼いてたべる。「お爺さん、何か食べるものがあるかね」。「何もありましねえ」。それでも、たまりをお小皿についでくれた。マタタビの実をも出してくれた。「猫になるかな」と言いながら、私は手のひらに受けた。私たちは幾杯となく、わ
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