雪の武石峠
別所梅之助
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大晦日《おおみそか》
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信濃町から
一時間たつかたたぬに、もう大晦日《おおみそか》という冬の夜ふけの停車場、金剛杖《こんごうづえ》に草鞋《わらじ》ばきの私たちを、登山客よと認めて、学生生活をすましたばかりの青年紳士が、M君に何かと話しかける。「はじめて武石峠へゆくのです」とのM君の答に、青年紳士は、自分の経験からいろいろ注意をして下された。「武石峠は今零度ほどの寒さでしょう。松本で真綿を買って、頸《くび》に捲《ま》いておいでなさい。懐炉《かいろ》をもってお出《い》でなさい。腰と足とを冷さねば大丈夫です。金剛杖はよい物をもってお出でなされた。あぶない時には、それをナイフで削って、白樺の皮をむいて火をおつけなさい、きっと焚火がもえつきます、下手をやるとあの辺でも死にますからな。猿などが出ていたずらをしますから、新聞紙を沢山もっていってマッチでそれを燃しておふりなさい。あいつはあの臭《におい》をいやがりますからな。」
気のいいM君は、「死にますからな」が、気になったらしい。紳士に別れてからも、それをきいていた。「危い」それは東京にいたってだ。天の下のいずちに、人を流さぬ川があろうぞ。またいずちに人を呑まぬ地があろうぞ。M君よりは、はるかに要慎《ようじん》深い扮装《いでたち》ながら、私はいつもの心で答えた。
甲斐の山々
小仏《こぼとけ》こえて、はや私たちは雪の国にはいっていた。闇にもしるき白雪の上に、光が時に投げられる。ぎっしり詰った三等車に眠られぬまま、スチームに曇るガラス窓から、見えぬ外《と》の面《も》を窺《うかが》ったり、乗合と一、二の言を交《かわ》しなどする。青島《チンタオ》がえりの砲兵たち、甲斐《かい》出身の予後備らしきが、意気あがっての手柄話、英兵の弱さったらお話にならないまで、声高に談《かた》るに、私もすこしくうけ答えした。
甲府を過ぎて、わが来《こ》し方の東の空うすく禿《は》げゆき、薄靄《うすもや》、紫に、紅《くれない》にただようかたえに、富士はおぐらく、柔かく浮いていた。高き金峰《きんぷ》山は定かならねど、茅《かや》が岳、金《きん》が岳一帯の近山は、釜無《かまなし》川の低地をまえに、仙女いますらん島にも似たる姿、薄紫の色、わが夢の色。ゆくてに高きは、曾遊《そうゆう》の八ヶ岳――その赤岳、横岳、硫黄《いおう》岳以下、銀甲つけて、そそり立つ。空は次第に晴れて山々も鮮《あざや》かに現れる。左の窓からは、地蔵、鳳凰《ほうおう》、駒の三山、あれよ、これよと、M君がさす。ああ駒か。そのいかつい肩は、旭日をうけて、矢のような光を放つ。銀、そういう底ぐもった色でない。白金《はくきん》の線もて編んだあのよろい、あの光、あの目を射る光の中に、私は包まれたいのだ。
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かの光、われをさゝん日ほゝゑみて見ざりし国にうつりゆかまし
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眼ざといM君がさす方に、深い雪の山、甲斐《かい》の白峰《しらね》――北岳だそうだ。この国しらす峻嶺は、厳として群山《むれやま》の後にそびえているのだ。
車室のうちは大部すいた。私たちは寛《くつろ》いでこの大景に接していた。八ヶ岳をあとにして、諏訪湖に添いゆくころから、空はどんよりとして来た。白いものがちらちら落ちそめた。きけば隔日ぐらいに降るとの事、すこし気が沈む。天竜川の川べをゆけば、畑に桑の枝は束ねられ、田の面《も》の薄氷《うすごお》れるに子どもはスケートをしている。藁鞋《わらぐつ》はいてゆく里人を車窓より見まもりゆくうちに鉢伏《はちぶせ》山右手に現れ、桔梗《ききょう》が原に落葉松《からまつ》寒げに立っていた。
松本で小さい馬車に乗りかえた私たちは、曇った空の下を浅間へ、十二時ごろ西石川の二階に通り、一風呂浴びて休むうちに雨、それが雪に変って、高原の寒さが身にこたえる。信州にはじめて入ったM君は、炬燵櫓《こたつやぐら》の上に広盆しいて、焜炉《こんろ》のせての鳥鍋をめずらしがっていた。
一たび武石峠へ
雪もよいの空、それに元日のお雑煮《ぞうに》おそく、十一時すぎにやっと宿を出た。一路ただ東へと。案内者は去年の雪の多かった事、腰まであって、あがきがとれず、美術学校の人の供をして、朝の十時に宿をたったが武石峠へいったら、とっぷり日がくれ、小屋に一泊したというような事など話す。宿でも八、九時間の道程といったれど、険なりとも思われぬ往復六里弱の道、何ほどの事かあらんと足をあげる。沢をいって、浅間のものの水汲むというあたりに外套《がいとう》をぬぎ、雪ふ
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