てゐる。塩屋の女主人は最初断つたが、仕舞に『月の夜影に見奉れば世を捨人、よしよしかかる海人の家、松の木柱に竹の垣、夜寒さこそと思へども蘆火にあたりて御泊りあれ』と僧を家の中へ迎へる。僧は磯辺に立つてゐる一本の松が、松風村雨の旧跡だと聞いて逆縁ではあるが弔つたと語る。二人の女性はそれを聞いて涙を拭ひ、『あまりになつかしう候ひて、なほ執心の閻浮の涙再び袖をぬらしさぶらふ』といつてなほも泣く。僧は不思議な言葉を聞くものだと問ひつめる。二人の女性は自分等こそ松風村雨の幽霊だと白状する、さうして僧に一辺の回向を頼む。
『あはれ古へを思ひ出づればなつかしや行平の中納言、三年はここに須磨の浦、都へ上り給ひしが、此程の形見とて御立烏帽子狩衣を』とクセの謡が進むと、後見役のものが烏帽子と長絹とを舞台へ持ち出して松風に持たせる。松風は『これを見る度にいやましの思草』と、持たせられた烏帽子と長絹を高く上げて見る。それから『よひよひに脱ぎて我寝る狩衣』と歌ひ、立つて『忘れがたみもよしなし』といふ。長絹を見て『取れば面影に立ちまさり』と云ひ、長絹をかかへるやに持つて、『起き伏し分かで枕より跡より恋の攻め来れば』とあつて、橋掛の方を振返り、長絹を顔に推しあてて悲歎の涙にくれる。
『装束着せ』のものが切戸から出て来て、松風に水衣を脱がせ、長絹に小烏帽子を着せる。松風は今作物の松を見上げて、『三瀬河絶えぬ涙の憂き瀬にも乱るる恋の淵はありけり』と歌ひ始める。松風……いな松風の麗はしい幽霊は狂してゐるのである。彼女は『あら嬉しやこれに行平の御立あるが、松風と召されさぶらふぞやいで参らう』と、立上つて松を目掛けて行かうとする。村雨はさうでないと松風に諭す。松風は『うたての人の言事や、あの松こそは行平よ、たとひ暫しは別るるとも、松とし聞かば帰りこんと連ね給ひし言の葉は如何に』といふ。村雨も『げになふ忘れてさぶらふぞや』といつて、心が乱れて来る。これよりイロエ掛り中の舞となつて、『いなばの山の峯に生ふる松とし聞かば今帰り来ん、それは因幡の遠山松』と、松風村雨は遠く橋掛の方を眺める。
『これはなつかし君ここに』と作物の松に胸ざしする。『須磨の浦わの松の行平』と右の方を向いて、須磨の浦を見渡す様子をする。『立ち帰りこは我も木陰に』と右へ廻り、『いざ立ちより磯馴松』と作物の松の側に寄り添ひ、松に両袖かけて、『なつ
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