かりや残るらん』とこの一番が終る時、誰もほつと一息ついて痛ましい詩の恍惚境から目覚めるの感があるであらう。ツレもシテも幕の内に入つて仕舞つても、観客の耳には永劫に吹く風と波の声が残るであらう。掛橋を独り帰つてゆく旅僧を見て、誰もその寂しい姿に打たれるであらう。
『痛はしやその身は土中に埋もれぬれど名は残る世のしるしとて、変らぬ色の松一本、緑の秋を残す事のあはれさよ』と諸国一見の旅僧が歌ふ時、諸君は薄暮が須磨の海岸を包み始めると想像せねばならない。想像は不思議な魔法使だ。私共はその杖に触れて、静かな青白い寂しい月が天に上つてゐると想像する……『松風』の一番はいよいよ始まる。眼前に見る二人の女性は松風と村雨である。彼等は葛、葛帯、箔、腰巻、腰帯、白水衣の装をして掛橋で向き向ひ、『汐汲車わづかなる』と同音で歌ひ出す。正面を向つて村雨は『波ここもとや須磨の浦』と歌ふと、松風も一緒になつて『月さへぬらす袂かな』と歌ひ終り、両人が向き合ふ……ああ、このたつぷり溢れる情趣は到底言葉で語られない。詩的なこの一番は最も麗はしく始まる一篇の詩劇である。私はここでいつて置く……能楽(能劇といつてもよい)の真生命はこの橋掛にある。橋掛で芸術的効果を納めない曲は、不成功な作品であると言つても過言でない。舞台に比較して素敵に長いこの橋掛ぐらゐ暗示的なものは、世界の舞台芸術いづれを尋ねても見当るまい。女性に扮する能役者が白い足袋をはいて、静かだが音律的にこの掛橋を歩む工合を見て、私はいつも『なんといふ女性的香気のある歩み工合であらう、小股の内気な運び工合は実に天下一品だ……この歩み工合だけでも、芸術として世界に誇ることが出来る』と思はないことがない。遠方から足だけを眺めてゐると、(実際に私は喜多六平太君が女性に扮する時、その足だけを見てゐることがある、)まるで白い二つの魚が泳いでゆくやうだ。かういふ天下一品の足をした松風村雨が、今橋掛から舞台に入るのである……『里離れなる通路の月より外は友もなし』と歌つて、彼等の心と環境とを貫く寂しさを語り、『汐汲車よるべなき身は海士人の袖ともに思ひを乾さぬ心かな』と、自分達の心細い生活を歎きかこつ。
天には寂しく光る秋の月が懸つてゐる。彼等は『羨ましくも澄む月の出汐をいざや汲まうよ』と渚に近寄る。彼等は自分等の浅ましい姿が、月夜の水に映るのを見て恥ぢる。然し
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