人となるであらう。此処こそ人生といふ沙漠中の沃地である。私共はこの沃地に湧き出る詩の霊泉を汲んで、もつと広く深い想像の世界へ踏込まねばならない。
私は再び『熊野』へ帰るとする……ロンギ地は『河原おもてを過ぎゆけば急ぐ心の程もなく、車大地や六波羅の地蔵堂よと伏し拝む』と歌ふ。私は熊野の一行と共に、愛宕の寺や六道の辻を過ぎ、今右の方に鳥部山を見るであらう。間もなく清水坂にさしかかりて山門に近づくであらう。熊野は『経書堂は是かとよ』と左を眺め、『車やどり馬とどめ』と左右を見、『ここより花車』とあとじさりして車を出る。熊野は母の心配で胸一杯になつて心慄いてゐる、清水の本堂を合掌礼拝して病母の加護を祈る彼女の姿は哀れである。
宗盛は面白く咲きほこる桜の木の下で宴を張る。御堂で祈誓をこめてゐる熊野は、呼びたてられて花見の酒宴につらなる。彼女は『あら面白の花や候、今を盛りと見えて候、何とて御当座などをも遊ばされ候はぬぞ』と人々から怪まれる。彼女は花見どころではないが、心を引立て思ひ直し、立つて『花前に蝶舞ふ紛々たる雪』の歌をうたふ。それから『清水寺の鐘の声祇園精舎をあらはし』で始まるクセ地謡になるが、このクセ即ち曲は、昔の曲舞の名残りで謡曲文中の花だと云はれてゐる。然し多くの場合に意味をなさない不規則な修辞的文字であるにとどまつて、精神的に全篇の有機体的情調を破壊してゐる。得て技巧上から見ようとする専門的見地に禍されない私共に取つて、このクセ(曲)は寧ろ迷惑である。もとより能楽の舞台効果からいふと、舞の関係上なくてはならないものであらうが、今日上演されてゐる曲目を通じて、舞そのものの価値でさへあるとは思はれない。然し私でも能楽の理解が進むに従つて、多くの人のやうに舞の歎美者となるかも知れないが……まだまださうなるには年数がかかる。或は私は到底舞の歎美者となれないかも知れない、クセの妙趣がいつまで過ぎても分らないかも知れない……それでいい、私の能楽に対する鑑賞は私の鑑賞である。他人からかれこれ云はれる筈がない。今『熊野』のこのクセに帰るが、これは私も満足しなければならない名文章ともいふべきもので、実際今日存在する三百番の中で、最も成功してゐる特殊な一例であるかも知れない。清水から見渡す風景も想像されてなかなかに面白い。熊野はクセにつれて遙か南を眺め上扇して大左右し、『稲荷の山の
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