である。今舞台へ顕れる熊野は、葛、葛帯、唐織着流しで、手に扇子を持ち、顔に小面を被つてゐる。小面には細長い目の上に、ずつと離れた一対の眉が附き、割りに太い低いどつしりと坐つた鼻だ……この平たい鼻に、軽快で理智的な現代を離れた土臭い昔の暗示がある。下脣が一寸上の方へしやくり上つた小さな口から、白い歯並が見える。これはまた不思議な芸術品で、彫刻家は女性の感情を蒸留し尽して、最後に残る尊い気分をそれに封じこんだものであらう……特殊な想像の世界をじつと見詰めてゐる顔である。この面ぐらゐ人間の感情を保留して慎しやかな表現をもつ仮面は何処にもあるまい。実際、世界に類のない面である。感情の驚くべき節約が面の上に行はれてゐるのであるから、見る人の想像で、涙の面ともなり又微笑の面ともなる……さうして眼前の熊野は心の中で泣いてゐるのである。それでも彼女は顔の表面で笑つてゐる。表で微笑して心で泣く……其処が、昔の女性の麗はしい点でなくて何であらう。この麗はしい女性美の幽霊が熊野となつて、現実の世界へ顕れてゐるのである。何故に熊野は心の中で泣いてゐるのか。彼女は今国元にある大病の老母からの手紙を、使者から受取つて読んだのである。手紙の中の言葉に、『年ふりまさる朽木桜、今年ばかりの花をだに待ちもやせじと心よわき、老の鶯、逢ふ事も涙に咽ぶばかりなり』といふ文字もあつて、彼女は、一時も早く主人宗盛から帰国の許可を得ようと悶えるのである。能の場面に手紙を読上げる場所がいくつもあるが、この『甘泉殿の春の夜の夢』で始まる手紙は、恐らく人を動かす感情で満ちる点で、随一の大文章であらう。熊野の歎願を宗盛はきかない。彼は『牛飼車よせよ』と急いで車の用意をさせ、熊野に花見随行の厳命を下す。熊野は止むを得ないので車に乗る。彼女に対しては『心は先にゆきかぬる足弱車の力なき花見』である。
この一番から私の感ずる興味はここで始まる。牛飼車といつても、後見が舞台へ持出し見附柱の側に置く作物の車に過ぎない。又車の作物としても、変な恰好でただ車といふことを暗示するのみだ。ツレの朝顔はこの作物の後に、ワキの宗盛はその左に立つが、これも彼等が車中にあるものと思はなければならない。牛飼車は動き始めて東山へ向ふのであるが、後見がその車を動かすのでもない……観客は想像の力で、東山の春を飾る爛漫たる桜花を心に描かねばならない。然し、
前へ
次へ
全10ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
野口 米次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング