の八島《ヤシマ》から戻つたが、以前の様に後宮出入りが自由に出来なかつた。此人の通り過ぎるのを見て、女房の中から、其かみの事を思ひ出したのが、此陽成院の御製と伝へた歌の通りの物を、さし出した。成範が返歌を考へて居る処へ、重盛が上つて来たので、急いで立ち退きしなに、燈楼のかきあげ[#「かきあげ」に傍線]の木の端で、や[#「や」に白丸傍点]文字を消して、ぞ[#「ぞ」に白丸傍点]の字を書きつけて、御簾の中に、さし込んで退出した(十訓抄)と言ふのが、其である。
国歌大観によると、二条院崩御の後、俊成の作つた歌と言ふの(新千載に「雲の上はかはりにけりと聞くものを、見しよに似たる夜半の月かな」)がある。此は全く、かの歌を本歌にとつたのである。故らに本歌と意識せなんだ迄も、其印象の復活したものと見れば、俊成以前に此歌のあつた証拠にはなる。
桜町中納言は、俊成と略時代を接した人であるから、勅撰集に載らない此逸話を持つた歌を覚えて居たのが「夜半の月」の種になつたことは、疑ひがない。武家の初めに、鸚鵡小町の伝説が名高かつたものなら、恐らく十訓抄の作者も、桜町中納言の逸話として、書き留めては置かなかつたであらう。歌柄も、後期王朝末のものと見るが、適当らしくはあるが、仮りに女房の頓作から、古歌の字をかへて示したのを、直ちに原歌に戻して自分の心を述べたとしても、確かに小町の歌として信ずべきものには「雲の上は」の歌を伝へてゐない。
此歌、意味から言うても、宮中にあつて、而も後宮に立ち入ることが出来ぬ場合でなくては、不適当な発想を持つてゐる。小町が関寺に居ての返歌ならば「ありし昔にかはらねど」は、間違ひである。平安朝初期の条件法の厳重であつた時代には、たとひ興言利口にも、「かはらざらめど」と言はねば通じなかつたであらう。成範はさて措き、後期王朝末頃の人が宮中にゐて、這入り難い後宮をゆかしがつたものと見るのが、一番宛てはまつてゐる様である。「たまだれの内裡《ウチ》」と枕詞風に見ても、此点の不都合は免れることが出来ぬ。
思ふに、後宮を出て、里におりた女房たちの、昔の賑やかな生活を忍ぶ趣きが、此歌にも感じられる処から、単に言語情調の方面ばかりから、かう言ふ伝へが出来たのであらう。伊勢[#(ノ)]御(大和物語)備前(今鏡)などの、愛着深い歌と同列に、此歌を名高い女房の秀句の様に、思ひ違へするのは、尤の事で
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