認められぬ。まづ方一間高さ一間ばかりの木の※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]《ワク》を縦横に貫いて緯棒《ヌキボウ》を組み、経棒《タテボウ》は此|※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]《ワク》の真中に上下に開いた穴に貫いて建てる。柱の長さは普通の電信柱の二倍もあらう。上には鉾と称へて、祇園会のと同じく円錐形の赤地の袋で山形を作つた下に、ひげこ[#「ひげこ」に傍線]と言うて径一丈余の車の輪のやうに※[#「車+罔」、第3水準1−92−45]《オホワ》に数多の竹の輻《ヤ》の放射したものに、天幕《テンマク》を一重に又は二層に取り付け、其陰に祇園巴の紋の附いた守袋を下げ、更に其下に三尺程づゝ間を隔てゝ十数本の緯棒《ヌキボウ》を通し、赤・緑・紺・黄などにけば/\しく彩つた無数の提灯を幾段にも掛け列ね、夜になると此に灯を点じて美しい。其又下は前に申した※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]《ワク》であつて、立派な縫箔《ヌヒハク》をした泥障《アホリ》をつけた、胴の高さ六尺余の太鼓を斜に柱にもたせかけ、膝頭までの揃ひの筒袖を着た男が、かはる/″\登つて、鈴木|主水《モンド》だの石井常右衛門だのゝ恋語りを、やんれ[#「やんれ」に傍線]節の文句其儘に歌ひ揚げるのである。
昨年五月三十日相州三崎へ行つた時、同地祭礼で波打際に子供の拵へた天王様が置いてあつたが、やはり※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]《ワク》の穴に榊の枝幾本となく、門松などの様に挿してあるのが、所謂山の移り出た様で、坐《ソヾロ》に故郷の昔の祭りが懐しく思ひ出された。木津では既に電線に障るとの理由で其柱も切られ、今では八阪社の絵馬堂《ヱマダウ》の柱となつて了うたのである。此又|※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]《ワク》と言ふ物が、横臼を曳き出したり、綱を敷いたり、さては粟殻を撒いて早速《サソク》の神座を作つたのと同様に、古代人の簡易生活を最鮮明に表示して居るので、漁師村などによく見掛ける地引網の綱を捲く台であつた様だ。小さい物では、大阪で祭りの提灯を立てる四つ脚の※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]《ワク》なども、地を掘つて柱を建てぬのは、即昔の神座の面影を遺すものではある
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