シキ》様のものに四神の像を据ゑてゐる点で、下にはいづれも錦の幢《ハタ》を垂れてゐる。此が※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]《ワク》の上に立てられる事の代りに、車の上に載せるやうになれば、竿頭のだし[#「だし」に傍線]なる四神像は、望見するに都合よく廓大する必要が起つて来るので、そこに四神像に止らず、祇園其他の作り物の模倣が割り込んで来る余地の出来た訣で、現に大正の大典に輓《ヒ》かれた麻布末広神社の山車は、錦の日月幢を二丈余りの三段の空柱《ウツバシラ》の前面を蔽ふ程に垂れて、柱の末のをしき[#「をしき」に傍線]様のものに、水干を着て御幣を持つた猿の作り物が据ゑてあつた。大体に山の手の山車は、老人の話を綜合すると、半蔵門を潜る必要上、下町の物よりは手軽な拵へであつたらしい。
此が下町の山車になると、柱の存在などは殆ど不明で、寧祇園の鉾に近《チカ》づいてゐるが、多くの物はやはり人形の後に小さく、日月幢を立てゝ俤を止めてゐる。此想像が幸に間違つてゐなければ、江戸の山車は旗竿の大きくなつて車に載せられたもので、所謂依代が勢力を逞しくしたものなのである。
諏訪の御舟祭《オフネマツ》りの屋台は恐らく、元三《グワンサン》大師作と伝へる舟謡を残してゐるほど古い日吉山王の御舟祭りと同様、水上渡御の舟を移動神座なる※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]の上に据ゑたものらしく、舁くべき筈の物を輓く点と、依代なる人形の柱に関係のない点は他の祭屋台と違つた点であるが、江戸の山車が今日の四神同様※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]の上に立てられ、其に車をつける様になつたといふ道筋を教へるものではないだらうか。
祇園の方でも、名こそ違へ人形を飾る事は一つで、鉾や作り山が大きくなつた為に、だし[#「だし」に傍線]なる名称はとらなかつたが、畢竟同じ物でなければならない筈である。
さて長崎|宮日《クニチ》の傘鉾のだしもの[#「だしもの」に傍線]は、田楽師の藺笠の飾り物乃至獅子舞・手古舞《テコマヒ》の花笠と一つだといふと、不審を立てる人もあらうが、まづ聞いて貰ひたい。
祇園の傘鉾にも四条西洞院のものには、傘の上に花瓶を据ゑて、自然木の松と三本の赤幣束が挿してあり、綾小路や室町のものも傘の上の金鶏が卵を踏んでゐる後に、金幣が二本立
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