し[#「だし」に傍線]と言うたことである。嬉遊笑覧に引いた雑兵物語《ザフヒヤウモノガタリ》の※[#「穴/巾」、第3水準1−84−10]《サカバヤシ》のだし[#「だし」に傍線]・武者物語の鹿の角のだし[#「だし」に傍線]などは、決して珍らしい事ではない。いろ/\の旗指物図を見れば、到る処に此名所は散見してゐる。
例へば島原陣諸家指物図に、鍋島光茂の馬印を「大鳥毛・だし・金の瓢」と書いたのや、奥羽永慶軍記小田原攻めの条に出る岡見弾正の酒林《サカバヤシ》のさし物などを見ても知れる。尚笑覧に引いた、祐信の三つ物絵尽しの謎《ナゾ》の、端午の幟のだし[#「だし」に傍線]は五月幟の竿頭の飾りをもだし[#「だし」に傍線]と言うてゐた証拠である。
さて此様に、竿頭の依代から屋上の作り物、屋内の飾り人形或は旗竿尾の装飾にまで拡がつてゐるだし[#「だし」に傍線]の用語例は、直ちに、江戸の祭りの山車《ダシ》の起原に導いてくれる。山王・神田の氏子の山車が、祇園の山鉾を似せたものだと謂はないまでも、本家・分家の間柄を思はせるだけの形似のあるのは事実である。
江戸では屋台全体の名であつただし[#「だし」に傍線]が、京都・長崎・大阪木津などでは、尚部分の名称としてゐるのを見れば、聡明な読者にはどちらが末、どちらが本と言ふ考へが直様閃めいて来なければならぬ筈である。江戸の山車は旗竿の頭の飾り物が非常な発達をした為に、其儘全体の名となつたのであらうが、尾芝氏も言はれた通り、鉾と言ふ所から一々柱頭に剣を附添へた祇園の鉾も、元は柱の名に過ぎなかつたのである。さすれば、山車《ダシ》・鉾・山の関係は、次の図に示す様なものである。[#山車・鉾・山の関係の図(fig18393_01.png)入る]此名称の分岐点は、各部分の特徴から分化して来たものなる事は、改めて説明する迄も無からう。室町時代に出来た尺素往来《セキソワウライ》に、既に鉾と山とが列べられてゐるところから見ると、此山或は鉾に同化せなかつた前の江戸の山車の原始的な形はどういふ物であつたらうか。私は今各地の祭りにふんだんに用ゐられてゐる剣《ケン》ぼこの類から、範囲を狭めては四神剣の観察をする必要があると思ふ。百川《モヽカハ》の落語にひきあひに出る四神剣の、四神と剣とは、実は別物である。剣は普通の剣ぼこで、其と四神の違つてゐる点は、旗竿の頭の黒塗りの折敷《ヲ
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