ても、通り神又は通り魔などゝ言ふ類もある。何れは人間でも、浮浪人は悪い事を犯し易い不安定状態に在る如く、浮浪神《ウカレガミ》も亦何時何処に割り込んで来て、神山を占めんとするやら計り難い故に、旁《かたがた》太陽神の御像ならば、睨み返しも十分で安心と言ふ考へであつたかと思はれる。
勿論此迄到来するには、数次の思想変化があつたに相違ない。最初は単純に招代であつたのが、次には其片手間に邪神《アシキカミ》を睨み返すことゝなり、果は蘇民将来《ソミンシヤウライ》子孫とか、鎮西八郎宿とか言ふ様に英雄神の名に托して、高く空よりする者の寄り来るを予防した次第である。西川祐信画の絵本徒然草に、垣根に高く樹《タ》てた竿の尖に鎌を掲げた図面があつた。余りに殺風景な為方とは思ふが、目籠と言ひ、鎌と言ひ、畢竟は一つである。
卯月八日のてんたうばな[#「てんたうばな」に傍線]なども、釈尊誕生の法会とは交渉なく、日の斎《モノイミ》に天道《テンタウ》を祀るものなるべく「千早ふる卯月八日は吉日よ、かみさげ虫の成敗ぞする」と申すまじなひ[#「まじなひ」に傍線]歌と相俟つて、意味の深い行事である。但、竿頭のさつきの花だけは、花御堂《ハナミダウ》にあやかつたものであつて、元はやはり髯籠系統のものであつたかと推測する。尚後の話の都合上此八日と言ふ日どりを御記憶願つておく。
日章旗の尖の飾玉などが、多くは金銀紙を貼《ハ》り、又は金箔などを附けて目籠の目を塞ぎ、或は木細工の刳り物などを用ゐて居るのは、元来此物がをぎしろ[#「をぎしろ」に傍線]であつて、魔を嚇すが本意ではなかつたことを暗示し、即武蔵野の目かい[#「目かい」に傍線]の由来談に裏切りするものである。殊に八日日《ヤウカビ》の天道花などに至つては、どう見ても魔の慴伏しさうなものでない。而もかくの如く全然当初の趣意が忘却せられるに至つても、所謂民俗記憶はいつまでも間歇的に復活し来り、屡此がよりしろ[#「よりしろ」に傍線]に用ゐられて居たのは偶然ではない様に思ふ。
さて、招祭《ヲギマツ》りの対象が神であれ精霊《シヤウリヤウ》であれ、依代の役目には変りがないとすれば、此間には何か前代人の遺した工夫の跡がある筈である。かく考へて注意して見ると、おもしろいのはかの盂蘭盆の切籠《キリコ》燈籠である。此物の名の起りに就ては、柳亭種彦の還魂紙料あたりに突拍子な語原説明もある
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