《ヒゲコ》の髯籠たる編み余しの髯が最重要であつたので、籠は日神を象り、髯は即後光を意味するものであると思ふ。十余年前粉河で見た髯籠《ヒゲコ》の形を思ひ浮べて見ても、其高く竿頭に靡くところ、昔の人に、日神の御姿を擬し得たと考へしむるに、十分であつたことが感ぜられる。
東京などで祭礼の日に舁《カツ》ぎ出す万燈の中には、簡単な御幣を竿頭に附けたものもあるが、是亦所謂御祖師花の類を繖状《キヌガサナリ》に放射させたのが正しい元の形式であつたらう。池上会式の万燈には、雪の山かとばかり御祖師花を垂れたのをよく見受ける。中山太郎氏の談に依れば「ゑみぐさ」と言ふ書に見えた佐渡の左義長《サギチヤウ》の飾り物で、万燈同様に舁ぎ出し、海岸で焼却するものにも、同じ様に紙花を挿し栄《ハヤ》して居た。更に野州・上州に亘つて、大鳥毛を見る様に葬式の先頭に振りたてゝ、途すがらお捻《ヒネ》り銭を揺りこぼして行き、此を見物群衆の拾ふに任せる花籠と言ふものも、やはり此系統に属する物ではないかと思ふ。
要するに当初の単純な様式が一変して、後には髯籠の周囲に糸を廻らし、果は紙を張つて純然たる花傘となし、竹の余りに瓔珞風に花などを垂下せしむる等、次第に形式化し観念化し、今では殆ど何の事やら分らぬやうになつたのである。万燈などは割合に丈が低いが、最初、深山木の梢から、此を里の祭の竿の尖に移し始めた頃のものは、竿の高さも遥かに高かつた上に、髯籠の形式も純一であつたとすれば、此類の象徴は頗る鮮明に人の心に痕を印することが出来たらうと考へられる。
最近のものでは、日《ヒ》[#(ノ)]丸《マル》の国旗の竿の尖に、普通は赤い球などを附け、日は一つ影は三つの感があるが、稍大きな辻々などに立てる旗竿には、是亦目籠に金紙・銀紙などを張つてゐる。五月幟《サツキノボリ》の竿の頭にも、東京では此に似た目籠又は矢車などを附けるが、栃木地方の人の話では、あの辺では十数年前迄は髯籠を取り付けて居たと言ふ。此から更に想像の歩を進むれば、今日の鯉幟なども或は亦髯籠の一転化かも知れぬ。髯籠から吹貫き又は吹き流しへ、吹貫き吹流しから鯉幟へ、道筋を辿ることはさして困難ではない。吹貫きは単に目籠の下へ別に取り付けた所謂髯とも見得るのである。
次に言ふべきは、修験道の梵天《ボンテン》のことである。目籠と梵天との関係は、今の処まだ、何れが親何れが子とさう手
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