ヅシ》人の妣《ハヽ》が国は、新羅ではなくて、南方支那であつたことは、今では、討論が終結した。其|出石《イヅシ》人の一人で国の名を負うたたぢまもり[#「たぢまもり」に傍線]の、時じくの香《カグ》の木実《コノミ》を取り来よとの仰せで渡つたのは、橘実る妣《ハヽ》が国なる南の支那であつた。出石《イヅシ》人の為の妣が国は、大和人には常世の国[#「常世の国」に傍線]と感ぜられて居たのである。此処に心とまることは、此常世が、なり物の富みの国であつたばかりでなく、唯一点だが、後の浦島[#(ノ)]子[#「浦島[#(ノ)]子」に傍線]の物語と似通ふ筋のあることである。八縵《ヤカゲ》・八矛《ヤホコ》のかぐのこのみ[#「かぐのこのみ」に傍線]を持つて、常世から帰りついた時は、既に天子崩御の後であつた。「命《オホ》せの木の実を取つて、只今参上」と復奏した儘《まま》、御陵の前に哭き死んだと言ふ件は、常世と、われ/\の国との間で、時間の目安が違うて居たと言ふ考へが、裏に姿をちらつかせて居る様である。極々内端に見積つても、右の話から、此だけの事は、引き出すことが出来る。地上の距離遥かな処に、常世の国[#「常世の国」に傍線]を据ゑて考へたこと、従つて、其処への行きあしは、手間どらねばならぬはず、往復に費した時間をあたまに置かないで、此土に帰りついた時の様子を、彼地に居た僅ばかりの時間にひき合せて見れば、なる程たまげる程の違ひが、向うと此方との時間の上にある。
たぢまもり[#「たぢまもり」に傍線]の話は、一見浦島のに比べれば、理窟には適うて居る。其かと言うて、橘を玉櫛笥の一つ根ざしと見るはまだしも、此を彼の親根と考へては、辻褄が合ひ過ぎる。常世[#「常世」に傍線]の中路《ナカミチ》は、時間勘定のうちには這入つて居ない。目を塞いだ間に行き尽すことが出来るのも、其為である。粟稈《アハガラ》の謂はゞ一弾みにも、行き着かれる。此不自然な昔人の考へを、下に持つた物語として見なければ、香《カグ》の木実《コノミ》ではないが、匂ひさへも※[#「鼻+嗅のつくり」、第4水準2−94−73]《か》ぎ知ることが出来ないであらう。して見れば、古人の目《メ》の子《コ》勘定を、今人の壺算用に換算することは、其こそ、杓子定規である。此事こそは、世界共通の長寿の国の考へに基いて居るのである。常世人に、あやかつて、其国人と均しい年をとつて居た為に、束の間と思うた間に、此世では、家処《イヘドコロ》も、見知りごしの人もなくなる程の巌の蝕む時間が経《タ》つて居たのである。
常世では、時間は固より、空間を測る目安も違うて居た。生活条件を異にしたものと言へば、随分長い共同生活に、可なり観察の行き届いて居るはずの家畜どもの上にすら、年数の繰り方を別にして居る。此とて、猫・犬が言ひ出したことではない。人間が勝手に、さうときめて居るのである。まして、常世の国では、時・空の尺度は、とはうもなく寸の延びたのや、時としては、恐しくつまつたのを使うて居た。齢《ヨ》の長人《ナガビト》を、其処の住民と考へる外に、大きくも、小くも、此土の人間の脊丈と余程違うた人の住みかとも考へたらしい。前にも引き合ひに出たすくなひこなの神[#「すくなひこなの神」に傍線]なども、常世へ行つたと言ふが、実は、蛾《ヒムシ》の皮を全剥《ウツハ》ぎにして衣とし、蘿摩《カヾミ》の莢《サヤ》の船に乗る仲間の矮人《ヒキウド》の居る国に還住したことを斥《サ》すのであらう。
とこよ[#「とこよ」に傍線]なる語の用語例は、富みと長寿との空想から離れては、考へて居られない様である。即、其が、第一義かどうかは問題であるが、常住なる齢と言ふ民間語原説が、祖々《オヤ/\》の頭に浮んで来た時代に、長寿の国[#「長寿の国」に傍線]の聯想が絡みついたので、富みの国とのみ考へた時代が今一層古くはあるまいか。
飛鳥・藤原の万葉《マンネフ》びとの心に、まづ具体的になつたのは、仏道よりも陰陽五行説である。幻術者《マボロシ》の信仰である。常世と、長寿と結びついたのは、実は此頃である。記・紀・万葉に、老人・長寿・永久性など言ふ意義分化を見せて居るのも、やはり、其物語の固定が、此間にあつたことを示すのである。浦島[#(ノ)]子[#「浦島[#(ノ)]子」に傍線]も、雄略朝などのつがもない昔人でなく、実はやはり、初期万葉びとの空想が、此迄あつたわたつみの国[#「わたつみの国」に傍線]の物語に、はなやかな衣を着せたのであらう。「春の日の霞める時に、澄[#(ノ)]江[#(ノ)]岸に出で居て、釣り舟のとをらふ[#「とをらふ」に傍点]見れば」と言ふ、語部の口うつしの様な、のどかな韻律を持つたあの歌が纏り、民謡として行はれ始めたものと思ふ。燃ゆる火を袋に裹《ツヽ》む幻術者《マボロシ》どものしひ語り[#「しひ語り」に傍点]には、不老・不死の国土の夢語りが、必主な題目になつて居たであらう。

     三

併しもう一代古い処では、とこよ[#「とこよ」に傍線]が常夜《トコヨ》で、常夜《トコヨ》経《ユ》く国、闇かき昏《クラ》す恐しい神の国と考へて居たらしい。常夜の国をさながら移した、と見える岩屋戸|隠《ゴモ》りの後、高天原のあり様でも、其俤は知られる。常世の長鳴き鳥の「とこよ」は、常夜の義だ、と先達多く、宣長説に手をあげて居る。唯、明くる期《ゴ》知らぬ長夜のあり様として居るが、而も一方、鈴[#(ノ)]屋翁は亦、雄略紀の「大漸」に「とこつくに」の訓を採用し、阪[#(ノ)]上[#(ノ)]郎女の常呼二跡《トコヨニト》の歌をあげて、均しく死の国[#「死の国」に傍線]と見て居るあたりから考へると、翁の判断も動揺して居たに違ひない。長鳴き鳥の常世は、異国の意であつたかも知れぬが、古くは、常暗の恐怖の国を、想像して居たと見ることは出来る。翁の説を詮じつめれば、夜見《ヨミ》或は、根《ネ》と言ふ名にこめられた、よもつ大神[#「よもつ大神」に傍線]のうしはく国は、祖々《オヤ/\》に常夜《トコヨ》と呼ばれて、こはがられて居たことがある、と言ひ換へてもさし支へはない様である。みけぬの命[#「みけぬの命」に傍線]の常世は、別にわたつみの宮[#「わたつみの宮」に傍線]とも思はれぬ。死の国の又の名と考へても、よい様である。
大倭の朝廷《ミカド》の語部は、征服の物語に富んで居る。いたましい負け戦の記憶などは、光輝ある後日《ゴニチ》譚に先立つものゝ外は、伝つて居ない。出雲・出石その他の語部も、あらた代の光りに逢うて、暗い、鬱陶しい陰を祓ひ捨て、裏ぎるものとては、物語の筋にさへ見えなくなつた。天語《アマガタリ》に習合せられる為には、つみ捨てられた国語《クニガタリ》の辞《コト》の葉《ハ》の腐葉《イサハ》が、可なりにあつたはずである。
されど、祖々の世々の跡には、異族に対する恐怖の色あひが、極めて少いわけである。えみし[#「えみし」に傍線]も、みしはせ[#「みしはせ」に傍線]も、遠い境で騒いで居るばかりであつた。時には、一人ぼつちで出かけて脅す神はあつても、大抵は、此方から出向かねば、姿も見せないのであつた。さはつて、神の祟りを見られたのは、葛城[#(ノ)]一言主《ヒトコトヌシ》における泊瀬天皇の歌である。手児[#(ノ)]呼坂《ヨビサカ》・筑紫の荒ぶる神・姫社《ヒメコソ》の神などの、人|殺《ト》る者は到る処の山中に、小さな常夜の国を構へて居たことゝ察せられる。国栖・佐伯・土蜘蛛などは、山深くのみひき籠つて居たのではなかつた。炊ぎの煙の立ち靡く里の向つ丘《ヲ》にすら住んで居た。まきもくの穴師《アナシ》の山びとも、空想の仙人や、山賤《ヤマガツ》ではなく、正真正銘山|蘰《カヅラ》して祭りの場《ニハ》に臨んだ謂はゞ今の世の山男の先祖に当る人々を斥《サ》したのだ、と柳田国男先生の言はれたのは、動かない。其山人の大概は、隘勇線を要せぬ熟蕃たちであつた。寧、愛敬ある異風の民と見た。国栖・隼人の大嘗会に与り申すのも、遠皇祖《トホツスメロギ》の種族展覧の興を催させ奉る為ではなかつた。彼らの異様な余興に、神人共に、異郷趣味を味はふ為であつた。
ほんとうに、祖々を怖ぢさせた常夜は、比良坂の下に底知れぬよみの国[#「よみの国」に傍線]であり、ねのかたす国[#「ねのかたす国」に傍線]であつた。いざなぎの命[#「いざなぎの命」に傍線]の据ゑられた千引きの岩も、底の国への道を中絶えにすることが出来なかつた。いざなぎの命[#「いざなぎの命」に傍線]の鎮りますひのわかみや[#「ひのわかみや」に傍線](日少宮)は、実在の近江の地から、逆に天上の地を捏《デツ》ちあげたので、書紀頃の幼稚な神学者の合理癖の手が見える様である。尤《もつとも》、飛鳥・藤原の知識で、皇室に限つて天上還住せしめ給ふことを考へ出した様である。神《カム》あがりと言ふ語は、地の岩戸を開いて高天原に戻るのが、その本義らしい。浄見原天皇・崗宮天皇(日並知皇子尊)共に、此意味の神あがりをして居させられる。柿[#(ノ)]本[#(ノ)]人麻呂あたりの宮廷歌人だけの空想でなく、其頃ではもう、貴賤の来世を、さう考へなくては、満足出来ぬ程に、進んで居たのであらう。ひのわかみや[#「ひのわかみや」に傍線]が、天上へ宮移しのあつたのも、同じく其頃の事と思ふ外はない。
飛鳥の都の始めの事、富士山の麓に、常世神《トコヨガミ》と言ふのが現れた。秦《ハタ》[#(ノ)]河勝《カハカツ》の対治《タイヂ》に会ふ迄のはやり方は、すばらしいものであつたらしい。「貧人富みを致し、老人|少《ワカ》きに還らむ」と託宣した神の御正体《ミシヤウダイ》は、蚕の様な、橘や、曼椒《ホソキ》に、いくらでもやどる虫であつた。而も民共は、財宝を捨て、酒・薬・六畜を路側に陳ねて「新富入り来つ」と歓呼したとあるのは、新舶来《イマキ》の神を迎へて踊り狂うたものと見える。此も、常世から渡つた神だ、と言ふのは、張本人|大生部《オホフベ》[#(ノ)]多《オホ》の言明で知れて居る。「此神を祭らば富みと寿とを致さむ」とも多《オホ》は言うて居るが、どうやら、富みの方が主眼になつて居る様である。此神は、元、農桑の蠱術《マジ》の神で、異郷の富みを信徒に頒けに来たもの、と思はれて居たのであらう。
話は、又逆になるが、仏も元は、凡夫の斎《イツ》いた九州辺の常世神に過ぎなかつた。其が、公式の手続きを経ての還《カヘ》り新参《シンザン》が、欽明朝の事だと言ふのであらう。守屋は「とこよの神をうちきたますも(紀)」と言ふ讃め辞を酬いられずに仆れた。
唯さへ、おほまがつび[#「おほまがつび」に傍線]・八十まがつび[#「八十まがつび」に傍線]の満ち伺ふ国内《クヌチ》に、生々した新しい力を持つた今来《イマキ》の神は、富みも寿も授ける代りに、まかり間違へば、恐しい災を撒き散す。一旦、上陸せられた以上は、機嫌にさはらぬやうにして、精々禍を福に転ずることに努めねばならぬ。併し、なるべくならば、着岸以前に逐つ払ふのが、上分別である。此ために、塞《サ》への威力を持つた神をふなど[#「ふなど」に傍線]と言ふことになつたのかも知れぬ。一つことが二つに分れたと見えるあめのひぼこ[#「あめのひぼこ」に傍線]・つぬがのあらしと[#「つぬがのあらしと」に傍線]の話を比べて見ると、其辺の事情は、はつきりと心にうつる。此外に、語部の口や、史《フビト》の筆に洩れた今来《イマキ》の神で、後世、根生ひの神の様に見えて来た方々も、必、多いことゝ思はれる。



底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
   1995(平成7)年3月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店
   1929(昭和4)年4月10日発行
初出:「国学院雑誌 第二十六巻第五号」
   1920(大正9)年5月
※底本の題名の下に書かれている「大正九年五月「国学院雑誌」第二十六巻第五号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※平仮名のルビは校訂者がつけたものである旨が、底本の凡例に記載されています。
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き
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