る。「た(誰)」・「いつ(=いづ)」・「なに(何)」など言ふ語は、未経験な物事に冠せる疑ひである。ついでに、其否定を伴うた形を考へて見るがよい。「たれならなくに」・「いづこはあれど(=あらずあれど)」・「何ならぬ……」などになると、経験も経験、知り過ぎる程知つた場合になつて来る。言ひ換へれば、疑ひもない目前の事実、われ[#「われ」に白丸傍点]・これ[#「これ」に白丸傍点]・こゝ[#「こゝ」に白丸傍点]の事を斥すのである。たれ[#「たれ」に白丸傍点]・いつ[#「いつ」に白丸傍点]・なに[#「なに」に白丸傍点]が、其の否定文から引き出されて示す肯定法の古い用語例は、寧《むしろ》、超経験の空想を対象にして居る様にも見える。われ[#「われ」に白丸傍点]・これ[#「これ」に白丸傍点]・こゝ[#「こゝ」に白丸傍点]で類推を拡充してゆけるひとぐに[#「ひとぐに」に傍線]即、他国・他郷の対照として何《ナ》その国[#「何《ナ》その国」に傍線]・知らぬ国[#「知らぬ国」に傍線]或は、異国・異郷とも言ふべき土地を、昔の人々も考へて居た。われ/\が現に知つて居る姿《ナリ》の、日本中の何れの国も、万国地図に載つたどの島々も皆、異国・異郷ではないのである。唯《ただ》、まる/\の夢語りの国土は、勿論の事であるが、現実の国であつても、空想の緯《ヌキ》糸の織り交ぜてある場合には、異国・異郷の名で、喚んでさし支へがないのである。
われ/\の祖々が持つて居た二元様の世界観は、あまり飽気なく、吾々の代に霧散した。夢多く見た人々の魂をあくがらした国々の記録を作つて、見はてぬ夢の跡を逐ふのも、一つは末の世のわれ/\が、亡き祖々への心づくしである。
心身共に、あらゆる制約で縛られて居る人間の、せめて一歩でも寛ぎたい、一あがきのゆとりでも開きたい、と言ふ解脱に対する※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]が、芸術の動機の一つだとすれば、異国・異郷に焦るゝ心持ちと似すぎる程に似て居る。過ぎ難い世を、少しでも善くしようと言ふのは、宗教や道徳の為事《しごと》であつても、凡人の浄土は、今少し手近な処になければならなかつた。
われ/\の祖《オヤ》たちの、此の国に移り住んだ大昔は、其を聴きついだ語部《カタリベ》の物語の上でも、やはり大昔の出来事として語ら
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