、ある形式を捉へようとすると、情緒の之に並行しないで、第二次思想との間に、非常な間隔のあるものが出来上る。客観を主とする俳句の如きに於ては、それもよいが、客観よりは寧ろ主観を生命として居る和歌に於ては、不成功に終つたものといはなければならぬ。
今一度言葉をかへていふ時は、思想は情緒のある傾向を示すものである。情緒と思想との関係は、斯の如く、非常に密接なものである。これが形式を呼ぶ場合に、趣向といふ立ち場が出来るが、和歌に於ては、屡この階梯は顧られぬことがある。和歌のみならず、主観を生命とする詩は、この階梯を形式成立後に延ばしておくことのあるのは、動《ヤヽ》もすれば情緒の流行を妨げることがある為で、事実この階梯は、必しも、此場合に欠くべからざるものではない。
しかしながら、第一次思想そのものをさながら表はさうといふことは、到底行はるべきことでない。この場合には、「言語形式」によつては、殆ど望《ノゾミ》がない。吾人はこの点に於て、象徴主義の価値を認める。即、作者の胸中に於ける情調の傾向を、読者に感受せしむるのみにて足れりとするのであるから、人々によつて感覚、感情の比較的強度を異《コト》にす
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