が今日の文献に存してゐる上から見て最も古い形であらうとおもはれる四段活用よりも前の時代のかたみをたゞ一つ古事記の上にとゞめてゐるのではあるまいか。然ながらこれは到底容易に断言せられることではない。)いくたち[#「たち」に「太刀」の注記]、いく弓矢、なぐ矢、しかすがに(さすがに)、ゆきがてぬかも、こよなし(こゆなしであらう)、およすく(おゆは老の意ばかりでなく生長といふ意味があつたかも知れぬとおもはれる形跡がある)などの連体法と見るべきものが、みな終止言とおなじ形をとつてゐるではないか。かういへば或は連体の語尾のる[#「る」に傍線]がこれらの場合には省かつたのであるといふかも知れぬけれども、以上は九牛の一毛たるにすぎないので、古い所ではたくさん見えてゐる。これらを悉くる[#「る」に傍線]が省かつたものであるというたならば、即ちとりもなほさず文法は事実の上に基礎をおくべきもので空想の立場から考へ出すべきものではないから、つまりは一歩をゆづつてる[#「る」に傍線]をもつた形が連体法の古形であつたといふ考をいれるとしても、事実は事実であるからそれを以て古文献にいでたるる[#「る」に傍線]をともなはない終止形と同じ形の連体法をうちくづすことはできない。即ちむしろ連体法の古形は(われ/\が今日に於てさかのぼる事のできる限りの)終止言と同一形式をそなへてをつた。とりもなほさず終止法と連体法とを包含した終止法(?)であつたのだといへるとおもふ。
みたまのふゆ[#「みたまのふゆ」に傍線]といふ語はこのふゆ[#「ふゆ」に傍線]が殖ゆの意であつて、即ちみたまのふゆるであると考へて見てもおちつかぬ。やはりふゆ[#「ふゆ」に傍線]をばふゆる事といはずにふゆ[#「ふゆ」に傍線]というた所に勢が存してをるのである。
雫はしづく[#「しづく」に傍線]の終止法か連体法かは分別することが出来ないけれども、やはりまた終止と連体とをば包含した終止法から出たものであると考へるが適当であるまいか。
古浄瑠璃の四天王高名物語其の他にやまふ[#「やまふ」に傍線]の道とかやまふ[#「やまふ」に傍線]のためにとかいふ語が見えてゐるのは、やはりさういふ所から出たのではあるまいか。といふのは京阪地方の語では連体名詞をば(い[#「い」に傍線]の韻をふくんだ)う[#「う」に傍線]の韻にかへることをさけてゐる(たゞの連用法には
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