#「たま」に傍線]のひ[#「ひ」に傍線]で、即、火光を意味する、と説明した学者があつたけれども、其は信じられない説である。少くとも、第二義に堕ちた説明だと思はれる。やはり実際に使うてゐる例から、考へねばならぬと思ふが、大和だましひ[#「だましひ」に傍線]とか、其外、平安朝に書かれた用語例などで見ると、此は知識でなく、力量・才能などの意味に使はれて居るので、活用する力・生きる力の意を持つた、極端にいへば、常識といふことにもなるので、或学者は、大和魂を常識として説明したが、其までには考へなくとも、少くとも、働いてゐる力、といふ事にはなるのである。
沖縄へ行つて見ると、此二者の使ひ方が、明らかに違ふ。たま[#「たま」に傍線]は、我々の謂ふたましひ[#「たましひ」に傍線]の事で、たましひ[#「たましひ」に傍線]は、才能・技倆を意味する。ぶたましぬむん[#「ぶたましぬむん」に傍線](不魂之者《ブタマシノモノ》)と言ふのは、器量のないもの・働きのないものと言ふことになるので、平安朝時代の用語例と、非常によく似た近さを、持つて居るのである。
さうすると、たま[#「たま」に傍線]とたましひ[#「たましひ」に傍線]との区別は、どこにあるかと言ふ事になつて来るのだが、其説明は、簡単には出来ない。とにかく、少くとも、たましひ[#「たましひ」に傍線]と言ふものは、目に見える光りをもつたもの、尾を曳いたものではない。抽象的なもので、体に、這入つたり出たりするものがたま[#「たま」に傍線]だつたのであるが、いつか其が、此を具体的に示した、即、たま[#「たま」に傍線]のしんぼる[#「しんぼる」に傍線]だつたところの礦石や動物の骨などだけが、たま[#「たま」に傍線]と呼ばれ、抽象的なものゝ方は、たましひ[#「たましひ」に傍線]と言ふ言葉で、現される様になつた。大変な変化が起つた訣である。
此、たま[#「たま」に傍線]とたましひ[#「たましひ」に傍線]との区別に就いては、いづれ機会を見て、もう一度話をして見たいと思ふ。



底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
初出:「民俗学 第一巻第三号」
   1929(昭和4)年9月
※「郷土研究会講演筆記」の記載が底本題名下にあり。
※底本の題名の下に書かれている「郷土研究会講演筆記、昭和四年九月「民俗学」第一巻第三号」はファイル末の「初出」欄、注記欄に移しました。
※底本では「訓点送り仮名」と注記されている文字は本文中に小書き右寄せになっています。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2006年3月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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