教では、説明の出来ない事なので、たゞ山籠りの事を考へて見ると、山伏しの生活の始まつた、元の姿が訣ると思ふ。そして、此が宗教化し、毎年、時期を定めて行はれて居る中に、一種の宗教的な形をもつ様にもなつたのだが、更に此が、奈良朝以前から既にあつた、山林仏教の影響を受けて、遂に其一派の様に説明せられて来たのである。其山伏しに、石を積んで、人を入れる法式が残つて居るといふのは面白い。
二三年前、三河の山奥へ這入つて、花祭りといふ行事を見た。旧暦を用ゐた頃は霜月に行はれたが、今は初春の行事となつて居る。古い神楽の一部分で、神楽は三日三晩続いた、其一部分だと説明せられて居るが、要するに、村の若者に、成年戒を授ける儀式の名残りと見られるもので、白山と言ふものを作つて、若者に行をさせる。人にならせるといふ、信仰があつたのだと思はれる。
かやうに、若者になる為には、石につめたり、山の中に塗りこめたりする事が行はれたので、普通、山ごもりは、単なる禁欲生活だと思はれて居るが、実は其間に、かうして、一度自然界のものゝ中に這入つて来なければならなかつた。其をしなければ、人にもなれなかつたのである。此は、神の魂が育つのと、同じことになるので、他界から来るたま[#「たま」に傍線]をうける形なのであつて、さうする事によつて、村の聖なる為事に、与る資格が得られる、と考へたのである。
かういふ風に考へて見ると、他界からやつて来るたま[#「たま」に傍線]は、単に石や木や竹の様なものゝ中に宿るのではなく、人自身が、ものゝ中に這入つて、魂をうけて来るのであつた。をかしな考への様であるが、日本人が、最初から、現実に魂を持つて来て居ると考へたら、こんな話は出来なかつたと思はれる。即、容れ物があつて、たま[#「たま」に傍線]がよつて来る。さうして、人が出来、神が出来る、と考へたのであつた。
       たま[#「たま」に傍線]とたましひ[#「たましひ」に傍線]との区別
たま[#「たま」に傍線]からたましひ[#「たましひ」に傍線]に這入つて見ると、用語例が、さま/″\に混乱してゐて、自分にも、賛成の出来ない様な、矛盾した気持ちで話をしなければならぬが、たま[#「たま」に傍線]とたましひ[#「たましひ」に傍線]とは、並んで居るのだから、此はどうしても、別のものと考へねばならぬ。たましひ[#「たましひ」に傍線]はたま[
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