は、恐らくこゝに起原があるのであらう。それでも単に自分の努力一つでは、目に見えぬ邪神のつけ入るのを避ける事のむづかしさを知つた時に、神仏の庭に集つて、神聖な場所で、暫くでも安心な夜を過さうとする。此は一郷《イツキヤウ》精進と称すべきもので、附属条件として、大原の雑魚寝《ザコネ》・筑波の※[#「女+櫂のつくり」、第3水準1−15−93]歌会《カヾヒ》などの雑婚の風習が伴つて来る。
が一方には、厳重に此夜みとのまぐあひ[#「みとのまぐあひ」に傍線]を行ふ事を禁じてゐるものもある。庚申待ちの盗孕《タウヨウ》、泉北郡|百舌鳥《モズ》村の暮から正月三日へかけての、百舌鳥精進のやうなのが此である。此は禁欲を強《シ》ふる仏道・儒教の影響があるのではないかと思ふ。単純に此点ばかりから見れば、地方の青年会が盆踊りを禁じたのは、祖先に対する一種面白い謀叛である。我々は歌垣或は※[#「女+櫂のつくり」、第3水準1−15−93]歌会を以て、盆踊りの直系の祖といふ様な、粗忽な事を云ひたくない。たゞ其間に、遠縁の続きあひを見る事が出来れば沢山である。
六 精霊の誘致
度々繰り返して来た様に、神であれ精霊であれ、対象に区別なく同じ依代を用ゐるものとすれば、様々な方向に分化して行つた痕を見る事が出来ねばならぬ筈であるが、面白いのは、彼の盂蘭盆の切籠《キリコ》燈籠である。其名称の起りに就ては様々な説はあるが、切籠はやはり単に切り籠で、籠の最《もつとも》想化せられたものといふべく、其幾何学的の構造は、決して偶然の思ひつきではあるまい。盂蘭盆|供燈《クトウ》や目籠の習慣を参酌して見て、其処に始めて其起原の暗示を捉へ得る。
即、供燈《クトウ》の形式に精霊誘致の古来の信仰を加味したもので、精霊は地獄の釜を出ると其まゝ、目当は此処と定めて、迷はず、障らず、一路直ちに寄り来る次第であつて、唯恐るべきは無縁の精霊であるが、それ将、応用自在な我々の祖先はこの通り魔同様の浮浪者《ウカレモノ》の為に、施餓鬼といふ儀式を準備して置いたものである。
要するに、切籠の枠は髯籠の目を表し、垂れた紙は、其髯の符号化した物である。切籠《キリコ》・折掛《ヲリカケ》・高燈籠を立てた上に、門火を焚くのは、真に蛇足の感はあるが、地方によつては魂送りの節、三昧まで切籠共々、精霊を誘ひ出して、これを墓前に懸けて戻る風もある。かの
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