役者の一生
折口信夫

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《》:ルビ
(例)其儘《そのまま》

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(例)その前後|大凡《おおよそ》源之助

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(例)薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]《さった》峠
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   一

沢村源之助の亡くなったのは昭和十一年の四月であったと思う。それから丁度一年経って木村富子さんの「花影流水」という書物が出た。木村富子さん、即、錦花氏夫人は今の源之助の継母かに当る人であるから、よい書物の筈である。此には「演芸画報」に載った源之助晩年の芸談なる「青岳夜話」を其儘《そのまま》載せてある。これには又、彼の写真として意味のあるのを相当に択んで出している。成程、源之助は写真にうつるのが上手であった。と言うのは彼の姉が――縁のつづき合いは知らぬが、日本の写真商売にとっては、大先輩だった――伊井蓉峰の父親の北庭筑波の門に入って写真を習い、新富町に塙芳野という表徳で、写真屋を営んでいた。そういう関係で源之助は写真のぽうずを自分で、取ることが得意だったのである。
河合武雄が最近亡くなったので、これで河合の芸風も消えるであろうが、この人は源之助の芸の正統を新派畠に打ちこんで継いだ形になる人である。父親は地位は低かったが、源之助とよく一座した大谷馬十である。河合は若い時旧派の役者になろうとして(外の事情は知らぬ)大阪に奔《はし》り、その前後|大凡《おおよそ》源之助の影響を受けて了った。河合の動きや、きまり方には、晩年迄源之助の気合いの入れ方が働いていた。ともあれ源之助の格を一番正面から取っていたのは、河合であっただけに、源之助が死に、河合がこの世を去った今日、源之助の芸風の絶えて了うだろうと言うことが、しみじみ感じられる。
源之助の時代は四十年位続いたが、その間悪婆即、一口に言うと――毒婦ものが彼の芸として通った。ああいう芸は模倣し易い訣《わけ》だが、どういう訣か、此きりで無くなり相だ。源之助の名を継いだ五代目はまだ若いし、先代市川|松蔦《しょうちょう》よりは融通はきくが、まだその年にも達していない。器量はもっと、あれを悪くした顔で、悪婆ものには、第一条件が、欠けている。悪婆は背が高くなくても、そう見える姿で、顔が美しく、声の調子のよい、まともに行けば、江戸の下町女房を役どころとする風格を持っていなければならぬ。
次に源之助の芸は、どこから来ているのだろう。第一は五代目菊五郎から出ている。菊五郎は立役の方でも、源之助に影響を与えているが、女形の方の影響を殊に多く与えた。芸の固まる時分に一番菊五郎の相手もしたし、芸に触れた為である。処で、菊五郎の方は、女形の芸は誰からとったかというと、それは沢村田之助だろう。田之助の舞台をよく観察していて、それをよく補正した人である。一体尾上家は江戸へ来た始めから、上方の女形として下った家柄である。五代目が田之助或は先輩の岩井半四郎などの芸をよく見ていたのは、尾上家の伝統を正しく襲《つ》ぐ者であった。一つには、九代目団十郎に対抗する為には、団十郎の為難《しにく》い所に出ねばならぬという事情があった。団十郎は、女形にはまず、極度に不向きであったからである。
源之助は生涯自分の持って生れた容貌や才能に頼み過ぎて、血の出る程せっぱつまった苦しい勉強をしなかった替りに、そういう菊五郎の影響が出て来た。彼の身についているものといえば、五代目の型ばかりであった。しかし容貌から言えば、五代目よりも、源之助の方がずっと好かったに相違ない。しかも五代目の忠実な模倣者というよりは、感受した印象を分析してばかりいた人であった。
源之助の出身は、大阪島の内の南西の端で、明治元年には十歳になっていたであろう。木綿橋の近所である。一方、浜側には此時分二三の興行物が出ていた。その近所で、露地《ろうじ》があちこちにあって、芸人の住いがあった。今も宗右衛門町にある、富田屋のお勇が生んだのだ、というのは確かだ相である。島の内船場の大檀那《おおだんな》の生ませた子ということになっているが、源之助の容貌を見ると、大阪の中村宗十郎とどうも似て、下顎《したあご》の少し張った美しい顔をしている。一体に芝居者は、色町で誕生する子同様、親子の関係が薄いのである。私には宗十郎の子らしい気がしてならぬ。宗十郎は九代目に対しては、東京へ来ても同格で、自分から屈しなかった人であるが、この人が源之助を目にかけ、一人前の女形にしようとしたのである。
生れたのは大阪であったが、源之助は小さい時分に東京へ来て、その当時の源之助(三代目)の子になり、沢村家のよい名である源平を名のった。初舞台が明治三年十二歳で、「夕霧伊左衛門」の吉田屋の娘という役で出た。役らしい役をしたのは、十四歳の時の「明烏」のゆかり[#「ゆかり」に傍点]で、余りにも役が平凡すぎるが――これには声がわりか何か事情があったのだろう。この時、田之助が浦里で出ていた。田之助も、身辺にいたのであるから、源之助の芸は菊五郎の芸ばかりの模倣ということにはならなかったであろうが、事実は田之助には、接触が少かったのである。明治十一年二十歳を越しても、源之助はまだ粒立たぬ役をしていた。団十郎・菊五郎など役者揃いの千本桜の時に、立女形の岩井半四郎の替り役として、木の実の小せん、鮨屋《すしや》のお里をした。これで、始めて出来《でか》したという評判を得た。出来るといっても、容貌が問題になるので、源之助の場合は恐らく容貌や、姿が助けていたろうと思う。その後明治十五年になって、二十四歳で改名して養父の源之助を襲名した。(源之助という名は、中村・三桝《みます》にもあったが、今では皆消えている。)彼は二十四歳から死ぬ迄この源之助で通した。改名するだけの興味を持たなかったと言うより、又する機会もなかったのであろう。大変長い源之助で、丁度大阪の鴈治郎《がんじろう》が若い時の中村鴈治郎から始って、死ぬまで鴈治郎で通したのと同じである。尤《もっとも》、鴈治郎は歌右衛門をつぎ損ったことにもよるのだが……。
明治十二年七月の夏芝居に、五代目菊五郎の弟の坂東家橘――これも働き盛りに死んで、芸は大したことはなかったが、気分のいい役者であったらしい――その家橘が上置きになって、福助(後の歌右衛門)を始め数人の花形が集った。この時、源之助は一番目に妲妃《だっき》のお百という大役をしている。この芝居の殺し場は、女一人で男を殺すなど、役にも変化があり、最後まで悪人のはびこる芝居である。それを二十を越したばかりの源之助がお百になって出るというのは、容貌や姿を認められてなったものと言われている。芝居道では何といっても家柄が大事で、沢村の中でも源之助はわるい名でないが、何となくりゅうとした印象のない名になっていた。源之助は沢村宗家の印を伝えていたというが、此は後、宗十郎に譲った。源之助は沢村の流れでは重い名であるが、この妲妃のお百をした時が、殊に役の一番いい、幸福を予約せられた時代であった。相手役は家橘であるから、大変出世したものである。
これからだんだん大きな役者の女房役をするようになり、菊五郎・団十郎、先代の左団次の女房として長い間勤めた。その因縁で、この間死んだ左団次とも、関係が深かった。菊五郎の女房役をしていた間は、源之助は自分の身体に合ったものを、自由に出して行けた。団十郎になると、女形は大分辛かったらしい。団十郎が活歴物をするようになり、黙阿弥の裏に居た桜痴が表面に出て来た時代が丁度源之助の青年から壮年の頃であったから、生憎《あいにく》なものと言えるだろう。彼は団十郎に跟《つ》いて行かなかった。活歴は演劇史上の邪道ということになっているが、私は世間の人のいうよりは、この活歴に面白いものを感じている。源之助としては、この時に十分研究すべきであった。彼は、舞台も生活も、昔の儘《まま》の役者型で押して行った。明治十七・八年頃から東京を去る二十年頃迄が、源之助の一番盛りの時であった。源之助の競争者といえば後の歌右衛門、当時の福助であるが、彼は上品ではあり、芸もすなおであるが、色気の点では、源之助の敵ではなかった。であるからその儘で行って居れば歌右衛門よりも高い地位にも上ったであろう。
役者というものは、風格が具《そなわ》って来ると、丁度今の羽左衛門のように、気分で見物人を圧して行く。それは容貌に依ってである。役者は五十を過ぎてから、舞台顔が完成して来る。芸に伴って顔の輪廓《りんかく》が、人生の凋落《ちょうらく》の時になって整って来る。普通の人間なら爺顔になりかけの時が、役者では一番油の乗り切った頃である。立役はその期間が割に長い。羽左衛門が今の歳になって、あれだけの舞台顔を持っているのを不思議がるのもよいが、これは不思議ではない。羽左衛門の顔は少し尖《とが》った顔である。あの人は自分の顔にとげ[#「とげ」に傍点]のあることを最初から認めていたからよいのである。立役はそんな具合で少し頬骨が出て来てもよいが、女の役はもう堪えられない。従って女形は割合に早く凋落する。三・四十ではまだ舞台顔はよくない。よくなったと思うとすぐに終りである。
源之助は盛りの時に大きな、役者としての生活に誤りをしている。源之助が大阪へ行った理由をあらわに言い立てるのはまずいという遠慮もあったかも知れぬが、伊原青々園の仮名屋小梅(花井お梅)を源之助は自分で演じている。しかもこの事件が、彼の大阪行きの一番の動機であった。「花影流水」には菊五郎について大阪へ行き、鴈治郎に止められてその儘大阪に残ったのだと言っているが、そう言う風に伝えている理由もあるのだろう。大阪へは中村宗十郎を頼って行った。その頃は角の芝居が格が一枚上であった。次が中芝居。彼は其後、道頓堀には五つ櫓《やぐら》が並んでいたが、其処に相応に久しくいた。一座は、中村時蔵(後、歌六)市川鬼丸(後、浅尾工左衛門)などであった。さながら後の宮戸座組である。源之助の朝日座でした中将姫の顔を私は見たのを憶えている。中将姫は田之助の芸であったから、謂《い》われがない訣《わけ》でもない。自分の芸に合わなくても、傾倒している人の芸はしたのである。この時、私は尋常三年の頃であったが、「朝顔日記」の浜松非人小屋の段も見た。これは乳母の浅香が悪者と戦って死ぬ場で、これを源之助がし、非人小屋の前で戦っていたのだけが記憶に残っている。中将姫の時、奉納した額の若顔の彼の中将姫のおし絵を、後、当麻寺で発見して懐しかった。源之助はこの朝日座を中心として五年間程居て、二十九年ほとぼりのさめた頃、東京へ帰って来た。不思議なことには、残菊物語で御存じの菊之助が詫《わ》びがかなって大阪から戻って来たのも、やはり二十九年であった。この間に福助はうんと延び、ずうっと後輩の尾上栄三郎(後の梅幸)も相当の役をする様になっていた。
東京に帰って来てした芝居が我々には面白いが、「続々歌舞伎年代記」を見ると、この頃は壮士芝居が相当に纏《まとま》って来て、山口定雄が「本朝廿四孝」をしていた。源之助はここで腰元濡衣、橋本屋の白糸をした。杉贋阿弥の劇評は元来余り讃《ほ》めぬ方であるが、橋本屋の白糸は絶技と讃《ほめたた》えている。源之助のような出たとこ勝負の役者には時によって、つぼ[#「つぼ」に傍点]の外れる所があるが、生世話物《きぜわもの》だと成功する率が多い。生活が即舞台となることが出来るから。そしてこの評判が源之助の芸格を狭める結果になった。遥かの後昭和十二年十一月明治座に久し振りで鈴木|主水《もんど》の芝居が出た。主水が宗十郎、白糸が時蔵であった。源之助は晩年今にも死ぬか死ぬかと思っていたので得意芸を演《や》らせたらばいいにと思ったが、興行者の見徳とでも言うかどうも変なもので、実現はしなかった。五人廻しというものを鈴木主水の劇の中に取り込んである。源之助は通人
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