ない。紳士であって立役と択ぶ所はない。ところが端敵になると、それはそれはいろいろな憎むべきことをする。併し舞台以外ではまるで愚人と同様で、例外なしに善人である。それと同じ訣《わけ》で、元来舞台の上では善人である筈の女形が、実生活では存外悪人である。
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端敵役の善良さ加減というものは、実に呆れるばかりで、実際どれもこれも例外なしに人が善いのである。これは舞台で始終憎らしい役ばかりするから、その反動で実生活上でそんなになるのか、と私も思ったが、実際はそうでないようである。つまり、彼等が知識的に、殆零に近い点で、まあ一種の愚人なのだろう。そういう愚の善良さだと思う。
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女形はまず第一に口うるさいのは例外なしで、喧嘩《けんか》早い者がいる、意地の悪い奴がいる、酒癖の悪いのがいるといったあんばいで、ねちねちした女としての悪さも兼ねている。それと男の悪さも加っているという訣なのだ。ところが舞台では善人ばかりだった。そして却《かえ》って毒婦型・悪婆型の女形である源之助などは善人だったと思う。殊に晩年の源之助は、実にあきらめきった解脱し切ったような、玲瓏《れいろう》な人柄になっていたらしい。
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尤、此は女出入りとは引離して考えられなければならない。花井お梅などは源之助のためにどうにもならない羽目に陥れられた女であり、その他にもいろいろそうした女出入りはあるけれども、そういう軽薄さというものは、昔の役者の集団式な性格なのだから、その点で源之助だけが所謂《いわゆる》棘《とげ》を負う、の訣もない。
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つまり彼は真女形《まおんながた》でなかったから、善人だったといえよう。
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歌舞妓芝居では世界とか時代とかいったものは、大きく分ければ四つになってしまう。王代物(入鹿や鎌足などの極、古い時代のもので、従ってその表すところの生活が宮廷に近いもの)・時代物(よろいかぶとの源平の時代を中心とした、それと同じ服装のもの)・お家物(現代ながら芝居の観客や役者たちの生活とかけ離れた大名などの生活を描いたもので、便宜上多少時代を離してはいる)・世話物(純粋の現代のもので、市井の生活に取材したもの、個々に分離した立場に於ける武士なども出て来るが、主として観客や役者の日常生活に最近い下町生活を描いたもの、稀《まれ》には農村生活もあるが)の四つで、これだけで役者のものの考えというものは出来ていたのである。
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元来善人ばかりの女を出している歌舞妓芝居だが、時代物・世話物のうちには、悪の分子を持った女が古くから少しずつは出ている。大名の家庭に於ける継母・後室のような役は安っぽい役者には出来ないので、自ら相当地位のいい役者がするのだが、例えば「※[#「鹿+鳥」、273−下−27]《ひばり》山古跡松」の中将姫をいじめる岩根御前などは普通立女形の役である。又「浅間岳面影双紙」の時鳥という浅間家の妾《めかけ》が、瞿麦《なでしこ》という老女に殺されるのだが、その時鳥を菊五郎がすれば、瞿麦は団十郎が勤めるというようなものである。悪人の女を含まぬ歌舞伎《かぶき》芝居も、ずっと昔からある悪女を改めて善人にして出すということは出来ないことであるし、又そういう妬婦《とふ》のあることによって善人の女が更に引立つのである。お家物になっても、お家騒動の原因は多く女で、例えば後妻が夫の眼をぬすんで男に会うところを継子に見つけられ、それからいろいろの悪いことをするというようなものは昔からある戯曲上の類型であり、説経|浄瑠璃《じょうるり》にもあるもので、これは変えられない。それでそういうものが繰り返されているうちに或特別な女の性根が出来る。それがまあ「女武道」になるのである。私は源之助は一番「女武道」にかなった役者であると思う。例えば「ひらがな盛衰記」のお筆のような役は割にしどころの少い役で、十分発揮出来ない憾《うら》みはあったにしても、源之助にうってつけのものだと思う。
「女武道」は正義で、又時としては武芸に達し、容貌もいい中年の女という立女形の役である。女形が勢力を持って来て、芝居の中心になって、主役をしなければならなくなった場合、「女武道」の必要が起って来るのである。又昔の芝居は仮りに午前に時代物をかけたとしたら、午後は世話物をするという風だから、時代物が武道なら、世話物の方でも武道を出したいという要望が起って来る。こうして世話物の「女武道」としての「毒婦・悪婆」というものが出来て来る。
芝居の正義というのは道徳的な本道の正義でなくともよいので、何にしても鬱積《うっせき》した気持ちを打ち払う様な華々しいものが、正義になるのである。今までおとなしい一方のものにきめられていた女というものが、乱暴してみせるということでもよい。又立廻りはしなくても、殺人だとか、男を自在にあやつるとかいうことでもよい。とにかく自分たちの胸が透けばそれでよいので、そういう正義が武道の範囲に入るのである。こういうところから毒婦・悪婆というものも出て来るのである。切られお富の科白《せりふ》「お家のためなら愛敬すて憎まれ口も利かざあなるまい」というのも、女形としてあるべからざることを演じるのも、忠義のためだから為方《しかた》がないという断りをする。ここで毒婦をしても、常に女形本来の性質である善人の反省に還《かえ》っている。
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悪婆というと、その文字面は老人のことのようだが、若い女のすることなので、たんかをきったり女白浪《おんなしらなみ》になったり、かたりやつつもたせをしたりする。元来上方の花車方、江戸の婆方にある性質で老人のものには違いないが、それが永い間の習慣で語だけ残っても、若い役になったのである。
これは花車がやりてになるのと同様で、やりてとさえ言えば、廓茶屋《くるわぢゃや》の引手婆を意味するようになったが、もとは若い女房であったのである。これらの変化も併し、そう古くからあった語ではないだろうとは思う。
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男の沢山いる中で、それらの男を翻弄《ほんろう》する女が出て来て、これが毒婦・悪婆の訣《わけ》だが、そうは謂《い》っても毒婦・悪婆の範囲は広いのである。例えば、源之助がよく演じた「鬼神のお松」(初演明治二十六年)の様な英雄型の女も毒婦・悪婆だが、又「蟒《うわばみ》およし」の様な少しも悪いところのないのも悪婆で、「女団七」のお梶の様なのも善人なのだが、やはり悪婆の型に入るし、実に多種多様なものである。田之助・源之助などがすれば、今までに型の決っていない役は、毒婦型・悪婆型になってしまうという傾向は非常に顕著である。
源之助は娘役をしたことが少く、その点大阪の魁車と同様であった。魁車は十八くらいから女房役をして、それで評判を取った人である。
でも若い時にはよくしたのであって、明治十七年「手習鑑」の道明寺の場の苅屋姫で評判をとったし、明治二十四年にした「妹背山」のおみわの役などは、饗庭篁村が「源之助のおみわ本役とて座の光をまし舞台も広く思はれたり 云々《うんぬん》」と批評している。四十代以後の源之助にはありそうにも思われぬ激賞ぶりで、而も娘役を本役として認めていることは注目さるべきであろう。
今の歌舞妓の本流は竹本劇、つまり浄瑠璃劇にある。これが本道に出来なければ、歌舞妓役者としては本格でないと言われねばなるまい。源之助はその若い時にはこのように本格の竹本劇が出来たのに、次第にそれから遠ざかって生世話物《きぜわもの》に移って行ったのである。役者として己を鍛錬するための本道から遠ざかったことは、源之助一代の痛恨事であったと思う。
歌舞妓芝居もこの頃では、「古典劇」などと書かれているのを見受けるが、どうもぴったり来ない感じで、今の若い人々には歌舞妓芝居のようなものも古典劇に見えるのかも知れないが、歌舞妓芝居を人生ほど見続けて来てもやはり、どうしても歌舞妓芝居が、げす[#「げす」に傍点]な猥雑《わいざつ》な感じがしてならないのである。本道の歌舞妓芝居がどれ程までに古典化されたかはまだ疑問だと思うのである。
四
次に源之助のもっている先輩について、まあ模倣原型論といったようなことを考えてみたい。
源之助の先輩は、女形の先輩も、立役の先輩も彼にとって有難いものではなかったと思う。例の花井お梅の事件で、明治二十年から五年くらい大阪に逃げて行っていた間に覚えた芸が、一番本格的なものであった。例えば「夏祭浪花鑑」の徳兵衛の女房おたつの如きは本格的であった。東京で彼が最、影響を受けたのは、田之助・菊五郎の芸だが、彼の直の先輩としてはこの田之助くらいしかなかった。田之助は同じ沢村家の先輩でもあり、当時最評判の高い女形でもあった。だから源之助が田之助を学ぶのは、極めて当然なことで、その前の岩井半四郎と田之助の娼婦《しょうふ》式な役柄の方面が、彼に力強く保たれたのである。
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毒婦が認められるようになったのも半四郎からで、「三人吉三」のお嬢吉三のようなものは、もともと半四郎のために書いたもので、後に菊五郎のものとして盛んに上演された弁天小僧などと同様、半男女物と言うべきだが、まあ傾向から謂えば、悪婆物である。
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これらの半四郎、殊に田之助のしたことを、源之助がいくつもしている。田之助は何も毒婦・悪婆ばかりした訣ではなかったが、その毒婦型・悪婆型が世人に残した強い印象というものが、田之助の死後までも世人は繰り返させようとしたのであって、源之助がそれを踏襲してその穴をうめるのは当然の勢いのようになっていた。で「廓怪談敷島物語」だの「妲妃のお百」だのというものは、みな田之助・半四郎系統の女形の芸なのである。
源之助に一番困るのは、五代目菊五郎に接近したために、菊五郎の芸をすべて取り入れなければならなくなったことである。一体先代の菊五郎は実に芸の範囲が狭そうに見えて実は広かった人で、元来立役だが、女形も随分したし、それを源之助がほぼうつしているのである。
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今の菊五郎も近頃になって、その家の芸たる女形をして、あの肥った身体でよく一つの面を拓《ひら》いている。踊りの場合は、断篇としては実によい女を表現する。併し、何と言っても真女形《まおんながた》にはなれぬ。先代と比較して今の菊五郎という役者は、役柄の範囲が広い様に見えて、実は狭い役者である。
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所作事《しょさごと》は源之助の得意とするところではないので、先代菊五郎が、「茨木」「戻橋」「土蜘蛛」など沢山の所作事《しょさごと》をしているのはうつさなかった。けれども役者である以上、全然踊らぬのではない。踊りを出し物にする役者が、外にあったと言う訣《わけ》なのだ。又その他にも村井長庵だの、加賀鳶の按摩道玄などの、色めいたところの少しもない悪党役は源之助の演じないところであった。つまり気のよい役はしたが、気の悪い役はしなかったので、尤《もっとも》、それには一部分は源之助自身がしようとしても興行師の方がさせなかったというところはあろうけれど、役者として色気があり過ぎたと言えるかも知れない。菊五郎の芸は市川小団次の芸を移しているので、つまり写実的な生世話《きぜわ》な狂言が多いのだが、それを源之助が継承したのである。そして源之助は、自分の柄に合わないものまで随分している。切られの与三郎や清心のようなものを継承するのは、少しも怪しむに足らぬ至極当然なことだが、場合によっては唯菊五郎がしたからするというだけでするような、源之助自身の柄を考えないところの役もずいぶんある。例えば「四千両小判梅葉」の野州無宿の富蔵・「牡丹灯籠」の伴蔵・宇都谷峠の文弥殺しの十兵衛などがそれで、唯菊五郎がやったからやるというだけのことで、もともと源之助の柄にない役である。
源之助が頻《しき》りに立役をしたのは、明治三十六年五代目尾上菊五郎が死んだ年あたりからである。こ
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