いた女というものが、乱暴してみせるということでもよい。又立廻りはしなくても、殺人だとか、男を自在にあやつるとかいうことでもよい。とにかく自分たちの胸が透けばそれでよいので、そういう正義が武道の範囲に入るのである。こういうところから毒婦・悪婆というものも出て来るのである。切られお富の科白《せりふ》「お家のためなら愛敬すて憎まれ口も利かざあなるまい」というのも、女形としてあるべからざることを演じるのも、忠義のためだから為方《しかた》がないという断りをする。ここで毒婦をしても、常に女形本来の性質である善人の反省に還《かえ》っている。
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悪婆というと、その文字面は老人のことのようだが、若い女のすることなので、たんかをきったり女白浪《おんなしらなみ》になったり、かたりやつつもたせをしたりする。元来上方の花車方、江戸の婆方にある性質で老人のものには違いないが、それが永い間の習慣で語だけ残っても、若い役になったのである。
これは花車がやりてになるのと同様で、やりてとさえ言えば、廓茶屋《くるわぢゃや》の引手婆を意味するようになったが、もとは若い女房であったのである。これらの変化も
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