れは田之助の継承を無理にもさせられた時とは対踵的《たいしょうてき》に、自分からすすんでしたものだった。四谷怪談のお岩・播州皿屋敷の侍女お菊・「恋闇鵜飼燎」などの怪談物で、菊五郎のした女形を可なり克明にうつして、それには成功している。一体彼は容貌|風采《ふうさい》がいいので、何をしても一通り見られるものになった。
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歌舞妓《かぶき》芝居の役者には一体にそういうところがあるので、今の十五代市村羽左衛門が本道に立派な芸を見せて来たのは、最近になってであるし、それまではただその美しい容貌、きゃしゃな風采だけで持ちこたえて来たのである。今の松本幸四郎なども、ひとえにあの立派な容貌と、堂々たる体躯《たいく》に頼っている。最近故人になった市川左団次も同様である。
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源之助の演技について考えてみると、いつも彼の芸はその場その場のもので、極端にいえば稽古《けいこ》など一向しないで、舞台でしているうちに、その場その場に美しい型がくり出されて行くといった様な迷信を持っていた様である。つまり役を確実に把持しなかったということ、又自分の芸に対する反省の足りなかったこと――それらは源之助自身が持っていた外的な天分が豊富でありすぎたために、彼自身もそれに頼りすぎて真剣な勉強をしなかったことによるものであって、そこに彼の最大の欠陥があったようである。
晩年の源之助が不遇であったのは、今述べたような彼の欠陥が禍《わざわい》したのだと思う。勿論彼も随分借金に苦しめられたことだから、そのために苦しまぎれに小さな芝居小屋に出ることになったわけだが、もうどうしても大芝居に根をおろさなければならない頃になっても、歌舞伎座に帰れず、浅草あたりにいつまでも流離しなければならなかったのである。源之助は上達して名人になるためには、煩いになるようなものを余りに沢山持ちすぎていたのであった。今日になって源之助という役者を考えてみると、成程源之助は名人にはならなかっただろう。だが、あれだけの印象を我々に残している人であってみれば、唯の人物ではあるまいと思われるのである。結局、源之助のもので一番残って行くものは、吉原その他の色街の太夫・遊女であったろうと思う。だが、其が彼の素質的なものかどうかは断言出来ぬのである。でも源之助の遊女の定評になった頃には、もう彼がすがれた頃だった。
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