んの薪を積むのですが、これこそ、前に申した、山人の山づと[#「山づと」に傍線]で、鬼木と言うたのは、鬼が持つて来ると考へたからでせう。にう木[#「にう木」に傍線]と言うたのは、丹生[#「丹生」に傍線]と関係のある語で、みそぎ[#「みそぎ」に傍線]を授ける木の意であつたらうと思はれます。処によつては、此丹生木の事をみづき[#「みづき」に傍線]とも言うてゐますが、此語も、やはり水の祓ひを授ける木の意であつたと思はれます。此丹生木は門松に立てる外に、小正月に、家の出入口や、祠・墓などにも立てます。今は、その家のものが立てるのですが、元は、山人が来て立てゝ行つたのです。
皆さんは、奈良朝頃、宮廷に御竈木の式と言うて、正月十五日に、宮廷に仕へてゐた宮人・役人、又は畿内の国司達から宮廷の御薪を奉る式のあつた事を御承知でせう。宮廷の御儀になつたのは、一種の固定で、これも、元は山人の山づと[#「山づと」に傍線]であつたので、それを群臣がまねて、天子への服従を誓ふ式としたのだと思ひます。江戸時代に、門松の根をしめる木をみかまぎ[#「みかまぎ」に傍線]と言ひましたが、奈良朝に行はれた宮廷の御竈木とは全然形の違ふ、かうしたものを、どうして同じ名で呼んだか、それは、かうした民間伝承があつたからだと思ひます。
かうして段々見て来ますと、今の門松は、此、門神柱の柱が竹に変り、その頭部が削がれたのだと考へてよい様です。竹を二本立てゝ注連をはつた風習は、京の大原にも、武蔵の秩父にもありました。大原のは、その注連縄に農具を吊したと言ひますから、七夕の笹に人形を吊し、聖霊棚に素麺や田畠の成りものを吊すのと似てゐたと言へませう。
底本:「花の名随筆1 一月の花」作品社
1998(平成10)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 第十七巻」中央公論社
1956(昭和31)年9月初版発行
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
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