の祖先のひこほゝでみ[#「ひこほゝでみ」に傍点]の樣な心に、なつて頂いては、困ると思うたからなのです。
わたしは都會人です。併し、野性を深く遺傳してゐる大阪人であります。其上、純大和人の血も通ひ、微かながら頑固な國學者の傳統を引いてゐます。氣短く思はないで、直《ナホ》く明《アカ》く淨《キヨ》く力強い歌を産み出す迄の、あさましい「妣《ハヽ》の國《クニ》」の姿を見瞻つて、共にあくうざず[#「あくうざず」に傍線]の叫びを擧げて頂きたい、と願ふのです。
力の藝術といふ語は、あなたと、わたしとでは、おなじ内容を具へてゐないかも知れませぬ。わたしの「ますらをぶり」なる語に寓して考へた力は、所謂「たをやめぶり」に對したものです。人に迫る力がある、鬼神をも哭かしめるに足るなど評せられる作品の中にも、「ますらをぶり」の反對なものも隨分とあります。其も一種の力であります。萬葉に迷執してゐるわたしは、ますらをぶりに愛着を斷つことが出來ませぬ。警察官の心が、荒ましくなつて、「萬葉調の歌をよせ。ますらをぶりを棄てろ」と怯かす世になつても、萬葉調を離れることは出來ないと信じてゐます。が、茲に立ち入つて言ふと、わたしはあまり多くの人の歌を讀み過ぎました。他人の歌に淫し過ぎました。爲に、世間の美學者や、文學史家や、歌人などの漠然と考へてゐる短歌の本質と、大分懸けはなれた本質を握つてゐます。其爲に、りくつ[#「りくつ」に傍点]としては、「たをやめぶり」も却けることが出來ませぬ。しかし一箇の情からすれば、斷乎として撥ね反します。けれども其處に、あなた方程の純粹を誇ることの出來ぬ濁りが出て來ました。
今度の歌にも、「たをやめぶり」に對する理會が、誘惑となつて働きかけてゐるのを明らかに見ることが出來ます。此は都人であり、短歌に於けるでかだんす[#「でかだんす」に傍線]としてのわたしに當然起り相な事です。併し恥づべきことであります。わたしの本然の好みに遠ざかり、又、力の洗禮を以て淨化することがなし遂げられてゐませんから。つまりは、自分自身の嗜きの本道をあるいてゐないかも知れぬといふ、自ら顧みての恥ぢなのです。
けれども安心して頂きませう。わたしは、其「たをやめぶり」をもますらを[#「ますらを」に傍点]の力に淨化する日が、來るに違ひないと信じてゐます。



底本:「折口信夫全集 第廿七卷」中央公論社
   1968(昭和43)年1月25日発行
初出:「アララギ 第十一卷第六號」
   1918(大正7)年6月
※底本の題名の下に書かれている「大正七年六月「アララギ」第十一卷第六號」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2004年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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