を緘黙させる様な才女が、多く現れたのである。春秋の物諍ひを判じた額田女王の長歌の如きも、さうした場合に群作を抜いた伝説のあつたものであらう。一人だけ、歌で判じたのではない。真の女性の作物は、長歌としても、十聯以上に及ぶものは古くから稀であつた。そこに、鋭く統一せられて出て来るものがあるのである。阪上郎女の如きは、長い作も創作してゐるが、此は奈良末の復古熱から出た擬古文に過ぎない。此人などは、恐らく女として漢文学を学んだ早い頃の人らしく思はれるが、平安中期までも、女は、唯古風を守るばかりであつた。
併《しか》し其は極めて稀だつた。宮廷及び貴族の家庭に仕へた女たちは、専ら万葉仮名の最《もつとも》標音的なものを用ゐて、主君・公子女の言行を日録して居たであらう。それが次第に草体になつて、平安京の女房の仮名文学に展開して行つたのであらう。かうした女官等の作物は、記録せられずに消えたものが多いのであらう。女歌は、多く口頭に伝誦せられて、多くの作者知らずの歌となつたと見てよい。此等の中に、幸に分類せられて書き残されたものが、巻十或は七の中などには、多いのであらう。かうした種類が、平安朝にも多かつた。新撰万葉・古今集・古今六帖などの無名の作、又は平安の物語・日記によくある、出処不明の引き歌は、大抵其当時々々に喧伝せられた、即興歌なのであらう。
平安の宮廷では、日常神事に与る者ほど、地位低くなつた。采女は下級の女官となり、奈良朝までの采女は、女房として高く位づけられた。けれども巫女であつた姿は留めて居た。宮廷貴族内庭の私的な事務に与り、主公に直接なる補助役・弁理者となり、訓化者となつた為である。かうした為事は、万葉時代にはまだ、巫女としての宮女の勤めであつた。女房の日記が、旧事・歌物語の外に、私事を多く交へる様になつて、段々、女房文学が栄えたのである。自作をも書きとめるやうになつたものを、後人――或は後には当時の人も――が歌だけを抄出したのが、女房家集である。其他、物語を抜き、人物事件や年中臨時の行事に関するものを書き出したのもあつて、物語・日記・有職書などが現れる様になつた。皆女房日記の内容であつたものだ。
かうした家集の中には、誇張や、衒ひや、記憶違ひなどもあるはずである。其に第一、対人関係は、後人の発想法とは異なるものが多い。万葉以前からの「女歌」の論理を考へないでは、男女関係
前へ 次へ
全34ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング