元の踏歌である。踏歌の詞章には、奈良朝には、宮廷詩なる大歌が謡はれた事もあるが、平安の初めには、漢詞曲が誦せられた様に見える。延暦十二年の奠都の際の男・女の章曲が、其である。けれども、後世の淵酔の郢曲《えいきよく》類を参照すれば、公式のものが其で、其他に崩れとして、国文脈の律文を謡つた事は推定してよい様だ。だから踏歌の曲としては、漢詩賦を用ゐるが、淵酔舞踏の詞としては、短歌其他を使うた事が察せられる。漢文脈の方は、後に「万春楽」と称する程、其句をくり返したのだが、国文脈の物は「あらればしり」と言ふ位『よろづ代あられ』を囃し詞に用ゐる様になつた。
此踏歌の詩賦から朗詠が生れて来ることは、既に述べた。此朗詠の前型と見るべき物の、歌と対照せられてゐる新撰万葉集の存在は、踏歌に詩歌の並び行はれたことを示すものである。而も、其詩を列ねた集の名を「千載佳句」と言うてゐるのは、考へねばならぬことである。踏歌から出て、帝徳を頌し聖寿を呪するものなるが為の名である。さうして其が更に、他の淵酔にも用ゐられた。万葉集の編纂が、平安初めにあるとすれば、其題号の由来も、踏歌其他の宴遊の用語に絡めて説いてよい。
万葉集の名義について、万詞又は万代の義とする議論は、王朝末の歌学者からくり返されて来た。而も今は、もう空論に達してゐる。疑ひもなく、万代の義である。だが、万代に伝ふべき歌集の義と信じられてゐるのは、尚考へ直さねばならぬ。私は、千載佳句に対して、天子・皇居の万葉を祝する詞章と言ふ用語が、平安朝初期には、あつたのだらうとの仮説を持つ。後に、万春楽と言ふが如きである。此語、踏歌章曲の一部としての、歌詞の名として通用した処から、舞踏歌の総称となつてゐたのであらう。さうして、次第に四季の風物と述懐とを示す歌集を、万葉集と言ふ事になつたものと見る。
初めは専ら謡ひ物として、後には半以上鑑賞用の作物にも、通用する名となつたのではあるまいか。私の推定が幸に正しくば、此集編纂当時は、まだ謡ひ物としての「万葉」の集であつたのであらう。して見れば、万葉集の最新しい時代の意義に叶うた巻は、八・十である。だが、万葉詞曲には、尚古い形が、宮廷及び氏々に残つてゐた。踏歌章曲以前の万葉を、此に加へて編纂しようとした成蹟が、現存の万葉集である。
此意味における万葉の用語例を拡充すれば、宮廷詩と言ふ事になる。宮廷の祭事儀
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